神の御前に立つ

ヘブライ人への手紙4章12~16節

澤田直子師

主題聖句 「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」 ヘブライ人への手紙4章16節
 ここから9章まで、ヘブライ人への手紙の主題は「祭司とは何か」ということになります。宗教改革以降、「万人祭司」という教理が生まれ、教会はそこに立って歩んできました。旧約聖書の時代、祭司は世襲職でしたが、今はそうではなく、現在の職が何であれ神に遣わされてそこにいるのであり、その仕事をもって神と人に仕える以信仰者は等しく祭司職なのです。
 13節『この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。』生ける神の御前に立ってその御言葉によって聖別されるのであれば、どれほど多くの罪や汚れ、不要のものを切り分けていただかなければならないことでしょうか。わたしたちは神様を信じお委ねしているとは言え、いざその時が来たら安心して御前に出て行こう、という気持ちにはなかなかなれないのではないかと思います。
 旧約聖書では、祭司が神の御前に立つ際の服装が細かく定められています。材質や重さ、形、今でも作れると思うくらい細かく記されています。神の御前に立つには、特別な服装が求められたのです。使徒言行録以降は、目に見える服装ではなく目に見えないものを着るように勧められます。
 コロサイ3:9~10『古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。』もともと人間は、神の似姿として誕生しました。しかし知恵の木の実を食べて罪を呼び込んで以来、自己中心の罪から離れられず、古い人を着続けることにこだわってきました。身に馴染んだ古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を身に着けるには、少しばかり勇気が必要で、馴染むまでの忍耐も必要です。
 信仰者が身に着ける「新しい人」とは、もちろん、イエス・キリストです。この大祭司は、古い人を脱ぐことの困難を知っていてくださり、憐れんでくださるお方です。この大祭司に依り頼んで、主の御前に進み出ましょう。
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神の安息にあずかる

ヘブライ人への手紙4章1~11節

澤田直子師

主題聖句 「それで、安息日の休みが神の民に残されているのです。」 ヘブライ人への手紙4章9節
 「神の安息」という言葉が出てきます。創世記の天地創造では、神様は6日間で世界を創造され、「極めて良かった」と満足されて、7日目をご自身の安息の日に定められました。創世記2章2節『神は御自分の仕事を離れ、安息なさった』それで、第七の日を祝福し聖別されたとあります。神の安息とは祝福と聖別の時です。心を留めたいのは、第一から第六の日までは、それぞれの最後に「夕べがあり、朝があった」という言葉があるのですが、第七日だけはそれがないということです。これは、神の安息の日、祝福と聖別の時は今に至るまで続いているということを表します。「安息日」とは、仕事をしてはいけない日ではなく、神の祝福と聖別の日です。
 しかし多くの人は、この世界にある貧困や争いを見て、あるいは自分の心の内にある悩みや苦しみを見て、どこに祝福や安息があるのか、と思うでしょう。聖書はそれを「かたくなな心」と言い表します。神の安息は揺らぎませんが、わたしたちの心は揺らぎます。安息から離れていくのは世がそうさせるのではなく、わたしたち自身が神の御手から迷い出ることを選んでいるのです。
 「安息」は神に属するもので、かつて神殿の至聖所で香を焚いた祭司は、外で待つ民衆に祝福の祈りをしました。「あずかる」を漢字では「与」という字を使います。与えることと与かることは同じ祝福なのです。ペトロの手紙Ⅰの3:9『祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。』
 13節には「神の言葉は生きている」とあります。生きているとは、動くこと、変化することです。そして、この鋭さは、信仰者を導き、心の思いや考えを見分けます。「分ける」とは聖別です。人間は自分で自分を聖別することができません。しかし神の御言葉が、信仰者を祝福し聖別して、迎え入れ、遣わしてくださる、このことを信じて委ねることが信仰です。そして、この信仰が整えられ養われるために、わたしたちは礼拝に招かれているのです。
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今日神の声を聞く

ヘブライ人への手紙3章7~19節

澤田 武師

主題聖句 「あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、『今日』という日のうちに、日々励まし合いなさい。」 ヘブライ人への手紙3章13節
 ヘブライ人への手紙の特徴の一つは、旧約聖書を多数引用していることです。3章で著者が引用するのは、本来は新年を祝う時に歌われたといわれる詩編95編の7節~11節です。ここをイエス様のみ言葉への証詞として解釈し、用いています。
        
 「かたくな」とは神のみ言葉に対して、「聞く事を拒否する、注意を払わない、鈍感である」、などの意味を持つ言葉です。聖書の中には多く使われます。
 著者は、かつてユダヤの民は神様に不平不満を叫び続け、神様の約束を信じなかった、『かたくなな民』であったことを明らかにします。改めて「兄弟たち」と呼びかけるのは、この出来事は過去のことではなく、今既にイエス様の十字架の救いを知っている者、信仰者として生きている者に向けられたメッセージであることを示します。「かたくなな心」を放置していると、「信仰のない悪い心」神様の約束を疑う心、試みる心が生まれます。生きた神様との解離を気づかせず、神様からの招きに背を向けてしまう心です。それは信仰生活を脅かす重大な罪となります。
 13節「…『今日』という日のうちに、日々励まし合いなさい」。イエス様の約束を信じた者が、その恵みを、救われた喜びを分かち合い、時として「かたくな」になりそうな心を、共に励まし合い、さらにみ言葉に応答する者として歩む。それが「今日」信仰に生きるということです。パウロは「今日」とは『今や恵みの時 今こそ救いの日』を、実感することであると言っています。
 「主の日」はイエス様が復活された「日曜日」だけではありません。信仰者の毎日は、イエス様とお会いする「今日」であるはずです。「今日」はみ言葉への応答を先に延ばしてはいけない日です。神様は「あなたたちは今日を生きよ」と励ましのお言葉をかけてくださっています。かたくなな心を捨て、「今日」もう一度神様の御声を聞きましょう。
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私たちこそ神の家

ヘブライ人への手紙3章1~6節

澤田 武師

主題聖句 『キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。』 ヘブライ人への手紙3章6節
 著者は「天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち」と、ユダヤ人クリスチャンに呼びかけます。神様は彼らを知っていてくださり、彼らは既に、神様の壮大なご計画の内にあり、「神の家の一員」として招かれています。
 しかし現実は、ふたたび試練と艱難が彼らを捉えようとしています。彼らの信仰は危機的状況にあります。
 「イエスのことを考えなさい」と著者は迫ります。注意を集中して、全精力を傾けて、イエス様の、その真理を探究する、本質を見極める、心を研ぎ澄ましてイエス様に迫っていく。改めてイエス様と対面しなさいと命じます。それは全てのクリスチャンに語られた言葉なのです。
 「イエス様のことを考えなさい」という薦めは、「あなたはイエス様のことをどう思っているのか」との問いに変わらざるを得ません。イエス様ならどうされたか、イエス様ならどう思われたかを、自分に問い続けるのです。この世を歩む信仰者として、自分の心がどこへ向かっているかを絶えず確認し続けるということです。私たちもまた「神の家の一員」に招かれている者として、ふさわしい者であり続けたい。この祈りから全てが始まります。
 「もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。」信仰者の歩みは、イエス様の希望と喜びに満たされ続ける生涯です。そこに神様によって生かされている者、神様を第一とする者の姿があります。この者たちこそ、神の家と呼ばれる者にふさわしいのです。
 大祭司イエス様は、私たちと神様との間を引き離そうとするあらゆる力から解放するために、ご自分を犠牲として捧げてくださいました。このイエス様を信じることによって、私たちは神様に大胆に近づくことができるのです。
 神様が特別な思いで創られた神の家。それが地上に建てられた教会です。その教会に招かれた一人一人が、神の家なる教会を形成する者たちです。私たちこそ神の家なのですと、証し続ける信仰者となりましょう。
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