神の愛が満ちる地

詩編104編24~35節

澤田直子師

主題聖句 『命ある限り、わたしは主に向かって歌い 長らえる限り、わたしの神にほめ歌をうたおう。』 詩編104編33節
 「敬老感謝礼拝」です。一年の中で何回か、感謝・祝福・記念と呼ばれる礼拝があります。しかしもともと、主イエスの復活を記念するのが礼拝であり、罪人であるわたしたちが十字架に贖われて永遠の命をいただく者とされた感謝を捧げるのが礼拝です。礼拝には祝福が満ち溢れています。そこをあえて「敬老感謝」というのは、人生の長い旅路を歩んできた先輩と、教会という場で知り合い、神の家族となった感謝を、改めて捧げよう、という礼拝だからだと思います。
 詩編104編は、創世記1章と対応する賛美の詩と言われています。1節は「わたしの魂よ、主をたたえよ」と始まり、同じ言葉で締めくくられています。これは103編も同じ形です。
 創世記1章では、神が言葉をもって天地を創造された様子が書かれていますが、詩編104編では、神が造られた世界をもっと緻密に、もっと色彩豊かに描いています。ちょうど、4Kとか8Kのテレビで見ると、見たことのある景色でも全く違う場所のように美しく見える、そんな感じだと思います。
 その、神様の造られた世界を、より美しく見る目を開く、より深く感じる心を開く言葉が「わたしの魂よ、主をたたえよ」なのです。そう思って読むと、自分の祈りが、感謝であれ執り成しであれ、いかにお願いの多い祈りであることか、と改めて思います。自分の魂に語りかけて、「さあ、主をたたえよ」と祈ることがどれくらいあるでしょうか。
 作者の目は、世界のいたるところに、神様が造られた命が満ち満ちていることを見い出します。それらの全てが、世界を形成する大切な一つ一つであることに気づきます。神様の御業が満ち満ちている、そのような目を開かれるとは、どんなに力強く、励まされることでしょうか。どこかにある「神の愛の満ちる地」に憧れるのではない、今、ここが「神の愛の満ちる地」なのだ、と改めて教えられます。人生の日々を多く積み重ねて来られた兄弟姉妹の皆さん、どうぞ、世界に満ちている神の愛を、主にある家族と分かち合ってください。
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全能の神の憐れみ

創世記43章8~14節

澤田直子師

主題聖句 「どうか、全能の神がその人の前でお前たちに憐れみを施し、もう一人の兄弟と、このベニヤミンを返してくださいますように。」 創世記43章14節a
 ヨセフ物語の12回目は、いよいよ兄たちが父ヤコブを説得して、エジプトへの2回目の旅が始まるところです。最初に買い入れてきた穀物は食べ尽くし、飢饉はひどくなる一方で、エジプトに行くより他に方法がありません。穀物を買ってきて、一族が生き延びられるかどうかは、ひとえに父ヤコブの思いにかかっています。
 ここで、ユダは自分の覚悟を見せます。もしベニヤミンを連れ帰ることができなかったら、「わたしがあなたに対して生涯その罪を負い続けます。」
 10節の「今ごろはもう二度も行って来たはずです。」という言葉が、一族の命を守ることを放棄しているヤコブへのいら立ちを表しています。
 ここに至ってようやく、ヤコブは現実を見、腹を据えて、息子たちにエジプト行きの指示を出します。そして、その時に、ヤコブの言葉に大きな変化が表れます。「どうか全能の父が…」聖書には、ここまで、ヤコブが失われた息子のために祈る言葉は出てきません。ヨセフが死んだと思い込んだ時も、シメオンが帰れないと知った時も、ヤコブはただ嘆くだけでした。ここまでのヤコブは、全能の神の憐みにすがることを忘れてしまっていたのです。
 全能の神に祈って、ヤコブは「どうしても子どもを失わなければならないのなら失ってもよい。」と、自分の思いよりも神様の御旨に思いを至らせます。かつて幾度も神の助けを受けたヤコブ、夜更けに一人神と格闘して祝福を勝ち取ったヤコブが、ここでようやく神にすがるとは、何としたことか、と思います。しかし一方で、人間とはそんなものかもしれないとも思います。
 もし、わたしたちに、思い通りにならない何かがあるのなら、覚悟を決めなければならない何かがあるのなら、それは、わたしたちが自分の思いを手放して、全能の神の憐れみにすがることを思い起こさせるために、神様が用意してくださった道かもしれません。失わなければならないのなら失ってもよい。手放した時に満たされる。全能の父の憐みを信じ求めましょう。
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過去を超えて行く

創世記42章35~38節

澤田 武師

主題聖句 「どうか、彼をわたしに任せてください。わたしが、必ずお父さんのところに連れ帰りますから。」 創世記42章37節c
 今兄たちは、ヤコブに旅の報告をしようとしています。本来この旅は、生き延びる糧の穀物を携え、祝福に満たされて故郷へ帰るはずでしたが、現実は、兄弟の一人シメオンは捕らえられ、返してもらうためには弟ベニヤミンを連れて再びエジプトへ行かなければならない。この事を、父ヤコブに説明し、説得して受け入れてもらわなければなりません。すべてはあの訳の分からない、エジプトの司政者の命令によって引き起された不安となりました。兄たちは不安に捕えられてカナンへ帰っていきます。ヤコブは報告を聞き、ヨセフを失い、今度はシメオンを,さらにベニヤミンまでも失うのか。「みんなわたしを苦しめことばかりだ。」と嘆きます。兄たちが持ち帰った袋を開くと、その中には穀物代金として確かに渡したはずの銀がそのまま残されていました。これを見たヤコブにも、その意味は分かりません。誰が、何のために。袋の中の銀は、さらに新たな驚きと恐怖となって彼らを捕らえます。
 「どうか、彼をわたしに任せてください。わたしが、必ずお父さんの所に連れ帰りますから。」過去に苦しむ家族を解放して、新たな道を歩ませるために、神様がルベンを用いて語らせた、神様の摂理、導きの言葉です。
 エジプト行きをヤコブに命じさせたのも、神様の摂理です。今、ヤコブは神様の摂理と自分の過去の中で、葛藤しています。ヤコブは自分の過去の悲しみに捕らわれていて、他の者の愛を見ることもできません。
 私たちの信仰生活も日々葛藤の連続です。御心に従うか、自分が愛と信じてているものを優先するか。ヨセフ物語を読む時、一つの確信が与えられます。信仰が停滞し、前に進まないように思える時、それは、神様があなたを用いられようとされる時ではないか。その備えの時ではないか。日々、信仰の葛藤の中にさえも、神様はあなたの明日のために計画を備えておられます。人間にすぎない私たちには神様のみ旨は知る由もありません。それでも神様は、イエス様を救い主として、この世に遣わされ、私たちに与えてくださいました。ここに既に、神様の摂理が示されています。
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袋一杯の糧

創世記42章18~25節

澤田 武師

主題聖句 「ヨセフは人々に命じて、兄たちの袋に穀物を詰め、支払った銀をめいめいの袋に返し、道中の食糧を与えるように指示し、そのとおり実行された。」 創世記42章25節
 司政者となったヨセフには、兄たちの素性はもちろん、話す言葉もすべて分かっています。ヨセフは兄たちと気づきましたが、兄たちは目の前のエジプトの宰相が弟のヨセフだとは誰も気づきませんでした。ヨセフはベニヤミンが故郷カナンに残っていると知ります。知った以上は、最愛の弟との再会、そして、彼と共にエジプトで暮すことがヨセフの唯一の願いとなりました。
 ヨセフは兄たちを利用します。ヨセフは正体が悟られないように、通訳を介して兄たちと話します。そして、兄たちの前では司政者として君臨し続けます。
 兄たちの話の中には、ヨセフが初めて知ったこともありました。「あの子の血の報いを受けるのだ。」私たちの過ちでヨセフを失ってしまった。それは取り返しのつかない事だ。ルベンが兄弟たちの愚行を「いさめ」切れなかった悔しさ、そして、過去の過ちの痛みから解放されていない兄たちの、嘆きの言葉を聞きました。苦しんでいる、後悔している兄たちをヨセフは見ます。
 神様は、兄たちの心にある縺れた過去の過ちの痛みから解放してくだるために、兄たちをヨセフの元へと導かれました。人には癒すことのできない、罪の赦し、罪の痛みから解放するために、神様が働かれました。壊れかけたヤコブの家族の絆を、もう一度しっかりと結び直されるための先駆けとして、異国エジプトでの兄弟の再会を備えられました。
 神様はヨセフを用いて、兄たちのために袋を用意させます。袋に詰められた糧、兄たちがその意味を知る時はまだきていません。兄たちは神様の恵みが詰まった袋を持ち帰ります。それは、神様が兄たちの生活にも関わってくださっている証しです。神様の摂理がここに表されています。
 私たちも意味の分らない困難に会います。そこにも神様はご自分の御計画のために糧を備えられています。すべての者の生活(袋)に、既に命のパン、イエス様が与えられています。神様はイエス様を十字架につけてまでも、罪人を救われようとされる方です。私たちも神様の摂理の中で生かされています。
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