全能の神の憐れみ

創世記43章8~14節

澤田直子師

主題聖句 「どうか、全能の神がその人の前でお前たちに憐れみを施し、もう一人の兄弟と、このベニヤミンを返してくださいますように。」 創世記43章14節a
 ヨセフ物語の12回目は、いよいよ兄たちが父ヤコブを説得して、エジプトへの2回目の旅が始まるところです。最初に買い入れてきた穀物は食べ尽くし、飢饉はひどくなる一方で、エジプトに行くより他に方法がありません。穀物を買ってきて、一族が生き延びられるかどうかは、ひとえに父ヤコブの思いにかかっています。
 ここで、ユダは自分の覚悟を見せます。もしベニヤミンを連れ帰ることができなかったら、「わたしがあなたに対して生涯その罪を負い続けます。」
 10節の「今ごろはもう二度も行って来たはずです。」という言葉が、一族の命を守ることを放棄しているヤコブへのいら立ちを表しています。
 ここに至ってようやく、ヤコブは現実を見、腹を据えて、息子たちにエジプト行きの指示を出します。そして、その時に、ヤコブの言葉に大きな変化が表れます。「どうか全能の父が…」聖書には、ここまで、ヤコブが失われた息子のために祈る言葉は出てきません。ヨセフが死んだと思い込んだ時も、シメオンが帰れないと知った時も、ヤコブはただ嘆くだけでした。ここまでのヤコブは、全能の神の憐みにすがることを忘れてしまっていたのです。
 全能の神に祈って、ヤコブは「どうしても子どもを失わなければならないのなら失ってもよい。」と、自分の思いよりも神様の御旨に思いを至らせます。かつて幾度も神の助けを受けたヤコブ、夜更けに一人神と格闘して祝福を勝ち取ったヤコブが、ここでようやく神にすがるとは、何としたことか、と思います。しかし一方で、人間とはそんなものかもしれないとも思います。
 もし、わたしたちに、思い通りにならない何かがあるのなら、覚悟を決めなければならない何かがあるのなら、それは、わたしたちが自分の思いを手放して、全能の神の憐れみにすがることを思い起こさせるために、神様が用意してくださった道かもしれません。失わなければならないのなら失ってもよい。手放した時に満たされる。全能の父の憐みを信じ求めましょう。
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