主の御計らいによって

創世記39章1~9節

澤田直子師

主題聖句 「主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ。」 創世記39章2節a
 エジプトに連れ去られたヨセフは、ファラオの侍従長ポティファルの家の奴隷として買い取られました。ヨセフの年齢は聖書には記されていませんが、おそらく20歳くらいだろうと思われます。この若さで、家の取り仕切りを任されるのですから、ヨセフは高い能力が与えられていたのでしょう。
 しかし聖書には、「主がヨセフと共におられた」と記されます。ヨセフ自身もそのことを知っていて、信じて、主に委ねていたからこそ、その能力を発揮できたのでしょう。
ここでヨセフはポティファルの妻から誘惑を受け、それを退けます。ユダヤ人は律法によって、正式な婚姻関係を大切にします。ヨセフは神と人に仕えることを第一として、主人を裏切ることは神を裏切ることと同じと考えます。
 37章までのヨセフと、ずいぶん変わったと思います。一言で言うと、思慮深く、誠実で、とても良い人になっています。いったいどこで、どんな心の動きによってこんなに変わってしまったのか、聖書には何も書かれていないので、想像するしかありません。
 ドタンで兄たちから厳しい仕打ちを受け、イシュマエル人に奴隷として売られて、その長い旅の間に、ヨセフは考えを巡らせたでしょう。少年時代の自分の軽率な言葉や行いが招いたこと。人間の妬みの恐ろしさ。エジプトに向かう旅の中でヨセフは神と出会っていたのかもしれません。旧約時代にも「新生」はあったのです。
 誰しも、自分の生活の中で、誰かにとって特別な存在でありたいと思うものです。生まれながらに父に特別に愛され、長い上着や夢を語って、自分の特別さをアピールしていたヨセフは、主の御計らいによって変えられました。置かれた場所で、与えられた身分の中で、主が共におられることに依り頼んで、誠実に力を尽くしました。
 わたしたちもまた、主の御計らいの中を歩んでいます。わたしたちが願うことではなく、主の御計らいを求めて、日常の働きを誠実に行いたいものです。
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人の知恵は浅い

創世記37章25~36節

澤田直子師

主題聖句 「ヤコブは自分の衣を引き裂き、粗布を腰にまとい、幾日もその子のために嘆き悲しんだ。」 創世記37章34節
 ヤコブの長男ルベンは、何とかヨセフを父の元に返そうと考えます。食事をしながら彼らが見たイシュマエル人のキャラバンは、エジプトに薬として重用された没薬などを運ぶ人々でした。そこで四男のユダは、ヨセフの命は救うとしても、エジプトに奴隷として売ったらどうかと提案します。
 しかし彼らが話し合っている間に、ミディアン人がヨセフを穴から引き上げ、イシュマエル人に売ってしまいました。わたしたちは、聖書を読んで、ここに神様のご計画が働いていることを知っています。エジプトに連れ去られたヨセフと、家族との関係は一度はここで切れますが、ずっと先で再び一緒になることを知っています。それどころか、彼ら族長物語は出エジプト記につながり、そこで過ぎ越しの夜に、神の子羊の犠牲があり、イエス・キリストの十字架の贖いの啓示が現わされることまで知っています。
 しかし聖書は「知っている」で終わってはいけない書物です。わたしたちは、ここから神様が教えようとされるのは何かを見出さなければなりません。ヨセフがいないことを知って、兄弟たちは途方に暮れ、ヨセフの上着を山羊の血にひたして、父に送りつけます。すると父ヤコブは、ヨセフが死んだものと信じ込んで、ただただ、嘆き悲しむのです。
 ここを読むといつも思うことがあります。誰か、どこかの時点で「祈ろう」と思わなかったのだろうか。ヨセフの夢の話を心にとめたヤコブ、かつて神と戦って祝福を勝ち取ったヤコブは、この時、神の御業をどのようにとらえていたのだろうか。どうして、目の前にある問題を人間の知恵でどうにかしなければ、と考えたのでしょうか。
 聖書は他人事で読むものではありませんが、他人のことははっきりと見えるものです。では、わたしは?と考えます。祈るより先に、自分の思い、感情が先走ってしまわないだろうか。わたしは、人の知恵の浅いことをよくよくわかっているだろうか。イエス様は「聞く耳のある者は聞きなさい」と教えられました。何よりも先に主の御言葉を求め、聞く耳を持ちたいと願います。
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神の民の出発

創世記37章12~24節

澤田 武師

主題聖句 「ルベンはこれを聞いて、ヨセフを彼らの手から助け出そうとして、言った。『命まで取るのはよそう。』」 創世記37章21節
 「兄たちが出かけて行き、シケムで父の羊の群れを飼っていたとき」、羊飼いたちの日常であったこの日を境に、ヤコブの一家は神様の壮大なご計画の中を歩み始めます。ヨセフは兄たちを探す“旅”に、普段から着慣れている“裾の長い晴れ着”を着て行きます。それは日常の続きに過ぎませんでした。
 兄たちは遥か遠くに、晴れ着を着たヨセフの姿を認めると、ヨセフの話した“夢の結果”がどうなるか、ヨセフを無き者にして試そうとします。
 しかし、長男のルベンはヨセフを父の元に帰してやりたいと思い、「命まで取るのはよそう。」と、ヨセフ殺害に反対します。ルベンの言葉は、兄弟たちの考えを変え、ヨセフの晴れ着をはぎ取って穴に投げ込むだけにしました。後、ヨセフは、この穴からミディアン人の商人に救い出されて、家族の前からその姿を消すことになります。神様はヨセフを殺させはしません。かといって、ヤコブの元に帰すこともなさいませんでした。神様のご計画に用いるために、来るべき日の準備のために、ヨセフをエジプトへと旅立たせました。
 聖書はその編纂が終わった時から、様々な国で読まれました。ヘブライ語からギリシャ語、ラテン語と、使う言語は変わってきましたが、福音の素晴らしさは決して変わることはありません。私たちは聖書を読んで「ヨセフ物語」の結末を知っています。また、イエス様が十字架に掛けられて死んでも、三日後に復活されたことも知っています。神様のご計画をそこに見出します。
 私たちはなぜ、繰り返し聖書を読むのでしょうか。それは、私たちの歩みは何時もリアルタイムだからです。この先は、どんなことが起こるか、誰にも分からないからです。
 その時、気づかせ、導きを与えてくださるのが聖書の御言葉です。神様のご計画を今は分からなくても、神様はその歩みをすでに備えてくださっていると知るのが御言葉です。あなたの今日の一歩は、神様のご計画の一歩であることに、感謝をもって歩み続けてまいりましょう。
 神の民よ、勇気をもって,あなたの一歩を神様の御計画のために踏み出そう。
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神の計画の源流

創世記37章1~11節

澤田 武師

主題聖句 「兄たちはヨセフをねたんだが、父はこのことを心に留めた。」 創世記37章11節
 「ヨセフ物語」は、他の族長物語と異なり、神様とヨセフの直接の交わりの記述はありません。しかし、代々の族長たちに示された神様の祝福の約束は、ヨセフにも変わることなく示されています。
 神様はヤコブを祝し、ヤコブの家を豊かにされました。しかし、豊かなる故に、家族の間に「高慢」や「溺愛」、「ねたみ」の罪が芽生え、不満となって家族の心に残ります。それは家庭崩壊の危機が近づいたということですが、彼らはこの現実に気づくことはありませんでした。ヨセフは、家族の中で誰よりも、父ヤコブに愛され、豊かであることを知っています。兄たちの行いを告げ口し、夢の話を父ヤコブにまで聞かせたのは、自分は特別な存在であるという「高慢」から出た行いです。
 ヤコブの「溺愛」は、ヤコブの母リベカの影響が強くあり、その上に最愛の妻ラケルの存在がありました。ヤコブには他にも、ビルハやジルパの息子たちも居ましたが、その愛の対象になったのは、ラケルの子ヨセフだけでした。 ヤコブ自身も、溺愛の家庭で育ち、それ故の悲劇を経験しているはずですが、彼は自分の家族のために経験を生かすことに思いが及びません。
 ヤコブはヨセフ以外の兄たちを、一まとめに考えています。彼らは自分たちの存在意義を父ヤコブに問いますが、答えを父から得ることはできません。兄たちのヨセフに対する「ねたみ」は、増し加えられていきます。兄たちの思いは、強い「憎しみ」と変わって、ヨセフを排除する考えを生みます。
 神様はこの一致の無い家族を用いて、神様の御業を表そうとされています。それは、今はまだ誰にも知らされていない、誰も知ることのない神様の壮大なご計画の源流となります。高慢で苦労知らずのヨセフの歩みが神様に用いられます。私たちも、理不尽な苦難や困難のただ中に置かれる時があります。そこにも神様は共に居られる。神様の祝福のご計画が示されていることを信じ、神様の摂理を証しする者として、歩んでまいりましょう。
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