いつまでも主と共に

テサロニケの信徒への手紙一4章13~18節

澤田直子師

主題聖句 「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導きだしてくださいます。」 テサロニケの信徒への手紙一4章14節
 6月第4週は、四重の福音の最後「再臨」の御言葉をお取り次ぎすると共に、1942年6月にホーリネス系の教会が激しい弾圧を受けた記念の礼拝でもあります。多くの牧師とその家族に悲劇が起こりました。
 テサロニケの教会は、パウロと共に歩む教会、信頼し合う教会でした。だからといって何も不安がなかったわけではありません。イエス様は「わたしはすぐに来る」と言いおいて天に帰られましたので、テサロニケの信仰者は、人間の感覚で言葉通りに受け取り、再臨を待ち望みました。と同時に、その日に間に合わず死んだ兄弟姉妹はどうなるのか、再臨の喜びにはあずかれないのか、と心配しました。
 四重の福音の中で、唯一「再臨」は、全ての信仰者にとって平等に初めての事です。誰も経験者がいません。それで、神様は、預言者や伝道者の中から数人を選んで幻を見せ、天の国を信じる根拠を与えてくださいました。パウロが確信をもって再臨について語れるのは、パウロ自身が、コリントの信徒への手紙二の12章で証ししているように、第三の天にまで上げられた経験を持っているからです。パウロに啓示された神のご計画によれば、再臨の日、まず眠りについた人々の復活があり、次に、地上の信仰者が引き上げられるのですが、この順番はそれほど重要ではないようです。
 主と共に天に上げられ、そこからは永遠に離れることがない、これが最も重要です。いつ来るかは誰にもわかりませんが、神の子、光の子にとっては喜びの日です。再臨は希望です。神様の愛と言い換えてもいいでしょう。パウロは、「信仰と、希望と、愛、この三つは最後まで残る」と書き記しました。世にあって神様がくださった道しるべを見つけ、日々の生活に希望と愛を見い出して再臨を待ち望みましょう。
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神様の業が現れる

ヨハネによる福音書9章1~12節

澤田直子師

主題聖句 『イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。』 ヨハネによる福音書9章3節
 四重の福音の三つ目、「神癒」です。武牧師は、「新生」は喜び、「聖化」は感謝である、と御言葉を取り次ぎました。続く「神癒」は何でしょうか。わたしはチャレンジであると思います。
 当時のユダヤ人社会では、目の不自由な人は社会の一員にはなれませんでした。この人にできることは、人通りの多いところに立ち、人の同情を当てにして施しを乞い、その日を生きることでした。イエス様は、彼の生まれながらに塞がれていた目を、泥でさらに塞ぎます。シロアムの池に行って泥を洗い落とす、というチャレンジを課したのです。もし、これを「できません」と言うのであれば、彼はまた人の同情にすがる日々に戻らなければなりませんでした。
 この人は、イエス様のお言葉通りに、シロアムの池に行きました。それほど遠くではありませんが、目の見えない彼にとっては大変なことだったでしょう。しかし、泥を洗い落として光を得た後では、周囲の人が本人かどうかわからなくなるほど、この人は変わります。表情も歩き方も別人のようになっていたのでしょう。神様の御業に触れ、そのチャレンジに応えたことが、この人を大きく変えました。
 「神癒」と聞く時、わたしたちは、医学に頼らずに病気が治る様子を思い浮かべるでしょう。もちろんそういう奇跡は起こります。しかし治らないという答えもあり得ます。あのパウロでさえ、三度も癒しを祈って聞かれなかったことを記しています。それでは、わたしたちが愛する人の癒しを祈り願うのは無駄な事でしょうか。決してそんなことはありません。祈った以上は、神様の答えが与えられるでしょう。それは新しいことの始まりです。癒されるか否かの先に、神様のチャレンジに応え、大きく変えられる時が備えられているのです。勇気をもって主の導きを求め、応答し、「わたしがそうなのです」と証しする者となりましょう。
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光の中を歩む

ヨハネの手紙一1章5~10節

澤田 武師

主題聖句 「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」 ヨハネの手紙一1章7節
 聖書は、神様は「聖なる方」であると記しています。「聖」とは、私たちとは全く異なるお方、区別された方であられる、神様の絶対性、超越性を表す言葉です。そして神様は私たちにも「聖なる者」となることを求めておられます。
 ホーリネス信仰はその名前が示すように、「聖化」を特に重んじる信仰です。実践的であり、個人個人の生活の場において、神様の「聖」を求める信仰と言えます。「聖化」は、「主と同じ姿に創り変えられて行く」とうことです。
 私たちはイエス様の十字架が私の罪の贖いと信じ、主の復活が永遠の命の存在を証しすると感謝して、新しく生かされる「新生」の喜びを知りました。
 しかし、現実には様々な誘惑、躓きが信仰者を襲います。嘆き、呟き、ため息をつき、怒りに翻弄(ほんろう)されてしまう。「聖なる者」とは、ほど遠い日常生活を改めて知らされます。昨日より今日、そして明日、より聖なる者になろうと努力しますが、一方では罪人として存在し続ける自分の姿に気づかされます。そのたびに「これではだめだ」と、自分の不甲斐なさを嘆きます。それでも良いと思います。
 「聖化」は罪人にこそ与えられた恵みです。罪人の私たちを神様は選び、救いを与えて、信仰生活に導いてくださいました。その中で私たちはなおも残る罪の闇に苦しみます。それでも見捨てられることなく主の御手に生かされて行く。ここに、何でもない日常の歩みにも感謝が生まれます。
 「聖化」は、神様が私たち罪人を、正しい方向に導くために備えてくださった恵みです。弱く惑わされる者が、神様の恵みによってなお生かされている。その喜びを知った者は、自分の人生を通して神様に近づきたいと願う。神様に似た者となるように、生涯をかけて求めて行く恵みです。「神は光であり、神には闇が全くない」聖化は私たちの心にある罪の性質を、イエス様の十字架の光を通して見ることから始まります。感謝してお委ねし、求めましょう。
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救いの喜びをもって

詩編32編

澤田 武師

主題聖句 「あなたはわたしの隠れが。苦難から守ってくださる方。救いの喜びをもってわたしを囲んでくださる方。」 詩編32編7節
 詩編32編は、「悔い改めの詩編」とも呼ばれ、旧約の中で福音を語っている詩です。「悔い改める」とは、神様に罪をそのまま告白して、今までの生き方から方向を変えて、神様に向き直って生きることです。その結果が「いかに幸いなことでしょう。」この言葉は作者の信仰告白です。
 聖書は「罪」を深く記します。背きは、神様に逆らうこと。意訳をすれば神様を無視することです。罪は、神様を見失うこと、咎は、不義を働くと言う意味もあります。罪の呻きに身も心も苦しむ日々を作者は告白します。
 「わたしの罪を告白しよう。」罪を黙し続け、苦しんだ作者が、今、神様から背きを赦され、罪を覆っていただき、咎を数えられず、心の欺きを取りさられ、神様に祈る者、すべてを委ねる者へと変えられました。それはただちに喜びの告白となりました。
 神様は祈る者を、隠れ家に招き、周りを囲って守ってくださる。神様への信頼と、救いの確信が「大水が溢れ流れるときにも、その人に及ぶことは決してありません。」という宣言となります。旧約時代に生きた作者は、イエス様の十字架の死と復活を知ることは適いませんでした。しかし現代の私たちは、十字架を担われたイエス様のお姿を、詩編の中にも見出すことができます。
 イエス様が担われた十字架の重さこそ、罪の重さです。イエス様が全ての者の罪を引き受けてくださいました。罪ある者が、罪赦され神様に顔を向ける者となることが、適ったのです。
 作者は「いかに幸いなことでしょう」と、語り始め、「神に従う人よ、主によって喜び躍れ。すべて心の正しい人よ、喜びの声をあげよ。」と語り終えます。神の御前に罪赦されることは「喜び」であり、真に幸いなことの証しとなったのです。私たちも、信仰を告白し、洗礼を受けて罪に死に、新しく生まれ変わりました。私たちの信仰生活は、「新生」の喜びから始まっています。「新生」は「喜び」です。それは何ものにも変えがたい幸いです。
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