憐れみ深い主

詩編103編1~13節

澤田直子師

主題聖句 『天が地を超えて高いように慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。』 詩編103編11節
 詩編103編から108編までは賛美の詩が続きます。その中でも103編は旧約聖書中最も美しい詩であるとたたえられています。普通、賛美の詩は、会衆に「さあ、一緒に神をほめたたえよう」と始まるものですが、103編は静まって自分の魂に語りかける言葉から始まります。
 旧約時代には、神と顔を合わせたら、神の清さに打たれて死んでしまうと考えられていました。しかし作者は、神と一対一の時間を持とうとしています。これは信仰そのものです。3~4節で、わたしの罪をことごとく赦してくださった、と信頼しているので、神の御前に出ていくことができます。まるで、イエス・キリストの十字架の贖いを知っているかのようです。
 5節の「鷲のような若さ…」はイザヤ書からの引用と思われますので、「ダビデの詩」は本当ではなく、おそらく捕囚時代の詩と思われます。ここで、作者は、何か個人的な苦難に襲われたのでしょう。旧約時代、苦難や病は神様からの罰を受けていると考えられました。捕囚は典型的な罰の形でした。
 しかし、彼がその悲しみ苦しみを神の前に注ぎだして祈った時、神はことごとく赦してくださった。彼は神の憐みの深さを思い知りました。神の赦しを体験した作者は、自分の苦難は神の罰と思っていたけれども、今や、神の愛を知るきっかけであったのだ、と目を開かれました。
 キリスト教神学では、神の憐みを「はらわたがちぎれるような思い」と形容します。神様はわたしたちの悔い改めを上から見て赦すのではなく、同じ痛み苦しみを共に味わいながら赦してくださるのです。
 わたしたちは、かつては、船を出して嵐にあったら、うろたえおののき、泣き叫ぶ者でした。神の憐みを知った今は、嵐を鎮めるお方を知っており、信じています。神殿の至聖所を囲う垂れ幕は既に裂けて取り除かれています。わたしたちは神様の前にまっすぐにためらわずに行くことができます。内にあるものがこぞって主をたたえ、賛美しつくす喜びを持って、出て行きましょう。
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希望と喜び

ペトロの手紙一1章3~9節

澤田直子師

主題聖句 「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。」 ペトロの手紙一 1章8節
 ペトロの手紙とある通り、イエス様の弟子であったペトロが、各地に散らされて住み着いた信仰者に向けた手紙です。手紙の中には、何度も、信仰者はこの世の寄留者であり、仮住まいであることが記されています。ペトロの手紙が書かれたのは紀元63年ごろですが、十字架と復活から30年経っていますので、実際にイエス様の復活を知っている人々は減っていました。しかし反比例するように、福音を信じる人々は、異邦人の中にも増えていきました。
 4節にあるように、『朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ』という幸いを求めて、偶像から離れ、まことの神に依り頼む歩みを選んだのです。「朽ちず」とは死なないこと、「汚れず」とは罪のないこと、「しぼまない」は永遠を表します。
 6~7節には、今しばらく試練に悩むかもしれないが、それは「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され」とあります。続く「火で精錬され」とは、詩編にも出てくる比喩的な表現で、不純物が取り除かれ、より価値の高いものに変えられることを表します。
 今、わたしたちは、自分を「生ける聖なるいけにえ」とするのに、様々に悩み労苦しています。その苦労の割には、実を結んでいないと感じる時もあるでしょう。しかし、主の再臨の日には、それらの苦労によって不純物が取り除かれ、主の喜ぶ供えものとして御前に立つことができるのです。これが3節にある「生き生きとした希望」です。生きているものは、必ず変化します。そして、一つ変化が起こると、すべてが揺さぶられます。その中にあってさえ、信仰者は、見たことのないキリストを愛し、信じ、喜びを持つことができるのです。
 天には、すでにわたしたちのものとなった、朽ちず、汚れず、しぼまない財産が用意されています。希望を抱いて歩みましょう。
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さあ、目を上げて

創世記13章8~18節

澤田 武師

主題聖句 「さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから。」 創世記13章17節
 ここで、注目したい御言葉は、「さあ、目を上げて」という言葉です。ロトもアブラムも「目を上げて、改めて眺めた。」そこに、選ぶべき道を見ました。
 ロトの目には、「ヨルダン川流域の低地一帯」が、豊かに潤った、住みやすい土地であると映りました。聖書は決して、良き方を選ぶことが間違いであるとは言っていません。聖書は何に近づく選びなのかを注意するように、と示しているのです。
 「ロトの選び」は神様の約束の地「カナン」から離れて行きます。神様の豊かさの中にありながら、そこに住む人々は罪を選びました。その後、神様に滅ぼされたソドムの町にたどり着いたことを記しています。ロトはアブラムから離れて、そして神様からも離れてゆく道を歩み始めました。
 「アブラムの選び」は、「さあ、目を上げて。」神様の御言葉から始まります。アブラムはロトに、自分の後継者としての希望を持っていたでしょう。ロトが去り、アブラムは失意の故にうつむきます。そのアブラムに神様は再び約束を示してくださいました。失意の中で神様に出会う。そう考えると、私たちの失望も、神様の道を選ぶために与えられた時であると言えます。
 神様は「あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。」アブラムは改めて見廻します。そこには「神様が約束された土地」がありました。それは神様が備えられた恵みであり、平安でもある、「見える限りの土地をすべて、永久にあなたとあなたの子孫に与える。」との約束がありました。
 信仰者の「選び」は、「一つの事から、一つを選ぶ」ことです。神様に従うことは、神様のみ旨を信じて、行うことです。それには「神様のみ言葉を選び続け」なければ「従い」続けたことにはならないのです。
 神様は私たちにも、「目を上げて、見渡しなさい」と、問われています。本当に選び取らなければならないものを「選んでいる」でしょうか。それが、神様から示されている道でしょうか。選び取って行きましょう。
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イエス様の復活

マタイによる福音書28章1~10節

澤田 武師

主題聖句 「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。」 マタイによる福音書28章6節
 イエス様の「復活」は、確かに神様のご計画でした。誰も経験していない「死」からの復活が事実として示されました。イエス様は、十字架刑のお苦しみから、死を打ち破って復活されました。イエス様の復活は、人類の歴史上ただ一度、全てを覆い終わらせてしまう「死」が打ち破られたことを意味します。
 信仰者はイエス様の復活を受け入れ信じます。死は全ての終わりではない。死への「恐れ」を捨て去ることから新しい生命が始まります。そして「復活」を信じる者の恐れには限りがあり、そこを超えて、永遠の命を与える「喜びへと変えてくださった」確信となってゆきます。
 教会は、どの時代にも、イースターをお祝いする礼拝を捧げ、イエス様の復活の喜びと新たな命のメッセージを伝え続けていくことが、永遠の使命です。
 マタイは、イエス様が復活された朝に「大きな地震、天使の降臨、墓が開けられた」と、記しています。「地震」は、古い秩序が揺り動かされ、新しい時代が開かれたという神様の証しです。塞がれた墓が打ち破られた。死が打ち破られた。これらの出来事は、福音の時が始まった証しです。
 女性たちは「恐れながら大いに喜び」、天使に託された言葉を、男の弟子たちに伝えるために、急いで帰ろうとします。その女性たちの目の前に、イエス様はそれまでと変わらない愛をもって現れてくださいました。肉の体をもち、言葉をかけられました。こうして女性たちは、イエス様が復活された事実を、理解できる形で体験しました。
 イエス様の「おはよう」との挨拶は、動詞の「喜ぶ」という言葉の命令形「カイレテ」です。イエス様は「喜べ」と女性たちに命じました。復活の主と出会った証人、良き知らせを告げる者として、彼女たちに新たな使命を与えます。
 イエス様が復活されたことは、神は全ての恐れを喜びへと変えてくださった、ということです。これこそが福音です。信じましょう。ここに良き知らせがあります。喜びの知らせがあります。
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