見捨てられて

哀歌5章15~22節

佐々木馨神学生

主題聖句『主よ、御もとに立ち帰らせてください わたしたちは立ち帰ります。わたしたちの日々を新しくして 昔のようにしてください。」 哀歌5章21節
 棕櫚の主日。イエス様がエルサレム入城の時、民は「ダビデの子に、ホサナ」と迎えました。「ホサナ」の意味は「主よどうか救ってください」。心からそのように切実な思いで民は迎えいれたのでしょうか?
 今日の哀歌5章は神への切実な祈りとなっています。22節「あなたは激しく憤り、わたしたちをまったく見捨てられました。」民は見捨てられたのでしょうか?
 哀歌の中心3章31節「主は、決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない。」とある。神様は決して見捨てることはされない。見捨てられる者であることを神様に向かって認め、主を待ちなさいと言われる。私たちは悲しみ、絶望、罪に真摯に向き合わない限り、真の祝福の喜びを真摯に受け取ることができない。5章22節においても見捨てられたと認め21節の希望の祈りへとつなげている。
 21節後半「昔のようにしてください」この「昔」と訳された言葉はケデムという原語で「東」という意味がある。東というのはユダヤの民にとっては大変重要で、光が来るとも意味される。「主よ、光よ、来てください」の祈りとなる。神様はその祈りに確実に答えられ光が私たちの只中に与えられた。私たちの飼い葉桶のような罪に汚れた心に、魂に、イエス様が来てくださった。
 22節の民の見捨てられた祈りにも答えてくださったのがイエス様の十字架上での言葉。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。私たちの見捨てられを、絶望を、罪を、「わたしを」と一人で全てを引き受けられた。ここにおいて時を超越する完全なる救済が成就したのです。この永遠の祝福の中にいることを決して忘れてはいけないのです。
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自分は救えない

マタイによる福音書27章32~44節

澤田直子師

主題聖句 「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。」 マタイによる福音書27章42節
 イエス様は、十字架の横木を担いでゴルゴタへの道を歩まれます。キレネ人のシモンという人が出てきます。キレネは北アフリカの地中海に面した町で、ユダヤ人が多く住んでいました。シモンは、一生に一度はエルサレムで過越しを祝いたいとやって来たのでしょう。そこで十字架を担がされるのは全く運の悪いことだと、この時は思ったでしょう。しかし聖書には、後にシモンがクリスチャンとなって初代教会の働き人として用いられたことが記されています。神様のご計画は人の思いをはるかに超えます。
 地元の篤志家の婦人たちが、十字架につけられる死刑囚の恐怖や苦痛を和らげるためにぶどう酒を差し入れました。また当時の布は貴重品だったので、死刑を執行する人たちが、特権としてもらうことになっていました。当時の十字架刑の習慣にのっとって、死への歩みが進みます。
 祭司や群衆はイエス様を嘲ります。「自分を救ってみろ、十字架から降りてこい、そうしたら信じてやろう」イエス様は、その気になれば自分を救う力はあったけれども、それをしなかったのか、それとも自分を救うことはできなかったのでしょうか。神の独り子、救い主であっても、人間である以上、自分は救えないのではないかと思います。
 「救う」という漢字はとても良くできています。左側は「求める」右側は変形していますが「父」です。父を求めることは、救われることにつながります。
 イエス様は弟子たちに、ご自分の言葉も行いも、全ては天の父の御心の通りであると教えられました。そして、イエス様を信じなくても、父なる神の御業を信じなさい、と言われました。イエス様がご自分を救えなかったゆえに、父なる神はイエス様を復活させました。わたしたちも自分を救えない弱さを受け入れ、天の父を求めましょう。
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茨の冠

エフェソの信徒への手紙6章18~20節

澤田直子師

主題聖句 「このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。」 マタイによる福音書27章31節
 ユダヤ総督官邸で、イエス様は再びお苦しみを受けられました。「ユダヤ人の王イエス」と偽ったとして訴えられ、十字架刑にかけられるイエス様に、ピラト直属のローマ兵は情け容赦ない仕打ちを加えます。ユダヤ人に対する憎悪は、密室を満たします。
 彼らは、イエス様にローマ兵の軍服、深紅の外套を着せ、茨で編んだ冠をかぶせ、王権の象徴として、葦の棒を持たせ、偽りのユダヤ人の王の姿に変えてしまいます。これらは全て王権の身代わり品、偽りの物です。さらに、彼らはイエス様に唾をかけ、葦の棒で殴り続けます。偽りの敬意が満ちています。この密室の出来事を、どうして福音書記者は知ることができたのでしょうか。
 聖書はイエス様の十字架を前にして「本当に、この人は神の子だった。」と、信仰を現した百人隊長がいたことを記しています。彼が、当事者の証しとして福音書記者に伝えたのではないでしょうか。真実の神様に出会った。いまさら裁判の判決は変わりませんが、一人のローマ兵の歩みが大きく変えられました。知らずに犯した自らの罪の深さを、彼は知り、伝えずにはいられなかったのではないでしょうか。
 この出来事の中心にイエス様はおられます。全ての偽りの声に沈黙を守り、十字架へと向かわれるイエス様。それはイエス様のお働きが、決して他の者には務められないからです。たとえ、偽りの王のお姿であっても、イエス様のお働きは決して変わりません。お体には鞭で打たれた傷、頭には棘の刺さる茨の冠をかぶせられたお姿は、誰にも代わることのできない、十字架へと向かわれる神様の御心を行う者のお姿です。
 イエス様は、茨の冠をかぶせられて、十字架へと進まれます。全ての人の罪を、その痛みを、冠としてかぶられて、十字架にかかってくださいました。私たちも、イエス様の後に続く者として、歩んで行きましょう。
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民衆の希望

マタイによる福音書27章15~26節

澤田 武師

主題聖句 「ピラトは、人々が集って来たときに言った。『どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。』」 マタイによる福音書27章17節
 イエス様の裁判は、関わった者たちの「希望」をあらわにします。「ピラトの希望」は、ユダヤ人の妬みによって訴えられたイエス様を、助けることでした。しかし、無罪判決を出せばイエス様を訴えた者たちの反感を買い、ユダヤ人暴動の引き金になりかねません。
 「バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」そこでピラトは過越祭の恩赦の慣例を利用し、ユダヤ人囚人の一人としてイエス様を釈放しようとします。民衆が、評判の悪人バラバを選ぶことは無いと確信し、ピラトは民衆に決断を迫ります。
 しかし、現実は、ピラトの希望とは正反対の方向へと動き始めます。民衆はイエス様を「十字架につけろ」と、叫び始めます。それはイエス様を訴えた「祭司長、長老たちの希望」であって、彼らの説得によって、今は「民衆の希望」に変わってしまいました。ピラトは混乱します。
 民衆の叫びに対抗するピラト、反面、ユダヤ人が暴動を起こせば、それはユダヤ総督の責任問題へとなりかねません。彼は自己保身ために自分の希望を変えざるを得なくなりました。ピラトは「民衆の希望」を聞き入れ、バラバを釈放し、イエス様を十字架へと追いやります。
 信仰生活はイエス様に従う真理を選ぶか、この世に従う真理を選ぶかの決断の繰り返しであると思います。イエス様に従う時には、苦難を選ばなければならない時があります。苦難の中を通らなければ見えてこない希望があります。
 イエス様は、偽りの希望に翻弄されている人々のすぐ近くに居られ、黙して見ておられました。イエス様のお気持ちを察すると、いたたまれない思いです。
 裁判は一人の罪人(ざいにん)が無罪として、釈放される判決となりました。罪人(ざいにん)バラバの唯一の希望は釈放されることでした。それは、イエス様が身代わりとなってくださらなければ、実現しなかった希望です。バラバはイエス様の命と引き換えに、罪人(つみびと)として滅びるはずの命を今得たのです。
 このバラバこそ、私たちの姿です。イエス様の十字架の贖いによって、罪赦されて新しい命を与えられた、私たちの姿です。ここに私たちに与えられた永遠の希望があります。
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