朽ちない冠を得る

コリントの信徒への手紙一9章19~27節

澤田直子師

主題聖句 「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。」 コリントの信徒への手紙一 9章23節
 これは2020年の小松川教会の標語聖句でした。一年が終わろうとする今、もう一度この御言葉を分かち合いたいと思います。この一年、わたしは今まで全く縁のなかったスカイプやズームでの交わりを覚えました。若い人たちがユーチューブを駆使するのを「すごいなあ」と見ていたのが、自分がユーチューブデビューです。「どんなことでもします」とは、こういうことだったのか?と、神様のご計画には驚かされるばかりです。
 さて、パウロは古代オリンピックの競技を例に挙げて、信仰者も賞を得るように走りなさい、節制しなさい、と勧めます。しかしパウロが聖書に基づいて説くのは「信仰義認」、神が信仰者に求めるのは、ただ信仰のみのはずです。
 どのような競技であれルールがあり、ルールを知らず、守らないのでは、どんなに速くても強くても勝利は得られません。信仰者の守るべきルールは二つ、「全てを尽くして神を愛しなさい」と「隣人を自分のように愛しなさい」です。パウロが自分の体を打ちたたいて服従させる、と言うのは、イエス様の「互いに愛し合いなさい」という教えに服従しなければ、失格者になってしまうと思い定めているのです。パウロは弱みを隠そうとせずに、自分は普通にしていたら主の教えに服従できないと証しています。
 パウロは、全ての信仰者に、自分を知り、走るように定められたコースをよく見て外れないように、と勧めます。ゴールに誰が待っているかよく見て、そのお方から冠を授けられることを信じて、真っすぐに走りなさい、と勧めます。ゴールの向こうには光と希望があるのですから、そちらを向いて走る信仰者の顔は光り輝いているでしょう。だからこそ、わたしたちは福音に共にあずかる者となれるのです。
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まことの光、世に来る

ヨハネによる福音書1章9~14節

澤田 武師

主題聖句 「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」 ヨハネによる福音書1章9節
 福音書はその冒頭に「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」と記しています。ヨハネはイエス様のお姿を示すために、言(ロゴス)、という言葉を選んで記しています。神様は「言」によってこの世界を創造されました。神様が言われたことは形をとり、被造物となり命が与えられました。
 「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」イエス様は、「まことの光」としてこの世に来られました。
 「まことの光」は、他に頼るものの無いヨセフとマリアには、飼い葉桶の中に眠っている幼子の姿となって、平安を与える光として来られました。
 律法を守ることができない、神様の祝福から漏れた者と思っていた羊飼いたちには、ベツレヘム郊外の夜空一面に輝く神様の栄光となって、天使の賛美と共に、祝福の光として示されました。
 高価な宝物を携えて、遥か東の国から砂漠を越えて来た博士たちには、ベツレヘムへと導く輝く星、困難を超える勇気の光として与えられました。
 神様を信じなければ、決して知ることのない真実です。イエス様のお姿を通して現わされる、計り知れない神様の私たちへの愛はこうして示されます。
 イエス様はその公生涯において、弟子たちと共に、ありとあらゆる苦難を経験されました。十字架に向かわれる時のイエス様は、前夜からの長い裁判、そして鞭打たれた傷の痛みで、十字架を担いで歩くだけで精いっぱいでした。弟子たちは逃げ去り、十字架刑に付けた者たちは、全てが終わると思っていました。無力なイエス様のお姿。その時には何も起こらなかった事実があります。
 しかし、三日目に神様はイエス様を復活させられました。復活を信じた者たちには、イエス様が闇の中に輝く光となりました。
 暗闇の中で輝く光。闇を開く光。一人一人の苦難の中で輝く光。変わることのない希望を与えてくださる光。「まことの光」は、信じる者にはそれぞれの心の中で、平安の光、祝福の光、勇気の光となります。わたしたちにも「まことの光」は与えられています。導かれて歩み行く者となりましょう。
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聖き御名を聞く

フィリピの信徒への手紙2章1~11節

澤田 武師

主題聖句 「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」 フィリピの信徒への手紙2章8節
 「へりくだって、互いに相手を自分より優れた者と考え、めいめい他人…注意を払いなさい。」と、パウロは兄弟姉妹が互いに愛し合うことを勧めています。そして、その思いを阻んでいるのが「自分の利益を求め、己の姿を大きく見せる」利己心であり虚栄心であるとも記しています。私たちにとって「へりくだる」ことを、率直に受入れ、続けてゆくことはとても難しい生き方です。
 クリスマスは、神様がこの世に「へりくだられた」ことから始まります。ヨセフは自分の判断を捨てて神様のご意思を受け入れ、御心に一切を託して、マリアを迎え入れます。クリスマスを受け入れます。ヨセフは神様の前に「へりくだった」のです。
 人類は歴史の中で、神と名の付くものをたくさん作ってきました。拝む対象は、天体・自然現象、強い獣・先祖等、あらゆるものを神とまつり上げました。
 「神の身分に固執せず、自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられた。」唯一の神様は、これほどまでに、この世の低きに降ってこられました。イエス様は全き人として、全き神として、被造物と共にこの世の困難を歩んでくださいます。パウロはそれを「へりくだり」と記します。
 そして「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」と、イエス様は十字架まで「へりくだられた」のです。
 私たちは信仰を告白します。教団信仰告白では、「十字架にかかり、ひとたび己を全き犠牲として神にささげ、我らの贖いとなりたまえり」、「十字架に付けられ、三日目によみがえり」と十字架の贖いと復活のイエス様を告白します。
 天使はヨセフにそして、マリアに「この子をイエスと名付けなさい」と告げました。その時から、「イエス・キリスト」聖なる御名は私たちに与えられました。私たちはイエス・キリストの御名によって祈ることが許されました。
 イエス・キリストの御名を呼ぶことを妨げるもの一切を捨て去りましょう。イエス様が歩まれた道を、その足跡をたどる者として歩んで参りましょう。
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神の愛を見る

ヨハネの手紙一4章7~15節

澤田 武師

主題聖句 『神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。』 ヨハネの手紙一4章9節
 ヨハネが呼びかける「愛する者たち」とは誰のことでしょうか。それはイエス様のお誕生を待ち望むすべての者たちです。ヨハネが勧める「愛」は、アガペーの愛です。この愛は、神様と人間の間の最も深い、究極的な関係を現わしています。意志の愛、見返りを求めない愛です。相手に向けられる愛です。
 マザー・テレサは愛について「愛の反対は憎しみではなく、無関心です。」という言葉を残しています。無関心は決して愛を育てません。無関心は愛を葬ります。神様はすべての者に、関心を持たれています。今神様を信じていない者にも、無関心ではおられないのです。
 私たちは、アガペーの愛は持っていません。律法的な行いから愛は生まれません。愛は神様と私たちの関係の中にあります。「独り子を世にお遣わしになりました。」神様は徹底的に私たちとの新しい関係を創られました。ここに神様の愛が、クリスマスとして私たちに与えられたのです。
 クリスマスの出来事は、婚約中の若者に、年老いた祭司に、野宿をしていた羊飼に、異国の博士たちに、神様の御心が示され、それを信じて精一杯の働きをした者たちの姿でもあります。
 「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して」、とても重要なお言葉です。私たちの信仰の起点は、神様が私たちを愛してくださった時にあります。そこから全てが始まりました。「光あれ」です。
 「わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」私たちはイエス様のお誕生を待ち望んでいます。私たちがしっかりと見なければならないのは、飼い葉桶に眠っておられる幼子と、十字架に向かわれるイエス様のお姿です。無力な者として、神様の愛によってイエス様はこの世にお生まれになったのです。そして、私たちと共に居られ、私たちの罪を贖ってくださる。私たちはイエス様のお姿を通して神の愛を知りました。世に現わされた神様の愛をしっかり見つめて行きましょう。
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