逃げるは恥だが役に立つ

マルコによる福音書14章50~52節

佐々木馨神学生

主題聖句 「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。」
マルコによる福音書14:50

 マルコ14:51〜52で若者マルコは、なぜ恥とも言える裸で逃げ出す様を記したのでしょうか。使徒言行録12:25では、マルコの従兄弟のバルナバとパウロと一緒にエルサレムに献金を運ぶ大事な任務に同行していることがわかります。次世代の青年マルコへの大きな期待が感じられます。続く使徒言行録13章にはバルナバとパウロの重要な第一回宣教旅行でもマルコが同行しているのです。
 しかしすぐ後13節を見ると、マルコはその宣教旅行から離脱してしまった。理由は不明ですが、とにかく正当な理由ではなかったのは間違いなかった。
 というのも第2回宣教旅行の際に、マルコに腹を立てたパウロは連れていくことに大反対しているのです。そしてパウロとバルナバは喧嘩別れし、別の地方に二手に別れて宣教旅行が拡大するのです。神様は見事にこの顛末を用いられました。マルコの弱さを益とし用いられた。そして、「慰めの子」バルナバは暖かい眼差しをもって、一度逃げたマルコを受入れ宣教旅行に同行させ続けます。
 その後マルコはどうなったのでしょうか?フィレモンの手紙24節でパウロは、協力者として真っ先にマルコの名前を上げ、テモテの第二の手紙4:11にはパウロは、マルコを役に立つものとして認め必要としていることが記されているのです。
 マルコの大きな成長がわかります。それは暖かい眼差しを注ぎ再度チャンスを与えた続けた先輩バルナバ、そして主のとりなしによる聖霊の大きな働きがあったからでしょう。
 最初の福音書の記者マルコはなぜ、裸で逃げた自分と逃げた弟子たちを記したのか?弱い私達を、逃げてばかりいる私達を、神様、イエス様は決して見捨てないで愛し抜くこと、主の前に神の前にあっては役に立たない者は誰一人といないことを伝えるためなのです。
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平和の主に招かれて

コロサイの信徒への手紙3章12~17節

澤田直子師

主題聖句 「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。」
コロサイの信徒への手紙3章12節

 12節にある5つの徳目は、クリスチャンでなくとも深くうなずきたいものだと思います。しかしこれは、クリスチャンたるもの、頑張って努力して身につけましょう、というふうな書き方はなされていません。もう既にそういうものがありますね、と読み取れるところです。なぜなら、神に選ばれ、聖められ、愛されているからです。
 パウロは、その手紙の中で、キリストの十字架の贖いを信じる者の救いについて、理路整然と論理的に述べています。しかしそのパウロが「愛は、すべてを完成させるきずなです。」と言います。コリントⅠの13章「愛の章」の最後でも、「最も大いなるものは、愛である」と言うように、わたしたちが、より高い自分を目指すのは、主からいただいた愛を世に現し、増し加えるためです。そのたどり着く先が主の平和です。
 「この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。」わたしたちは、主に招かれた者です。ルカによる福音書14章に「大宴会のたとえ」があります。正式に招かれていた人々は、この世的な理由をつけて出席を断りました。宴会の主人は、僕に、「町へ出て、貧しい人、体の不自由な人を連れてきなさい」と命じます。この宴会の主人が、客であるわたしたちに望んでいることは、そこで供される養いの食事を余すところなく味わい、喜んで帰って行くことです。「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿る」のです。宴会はいずれ終わります。招かれ、帰って行く客(わたしたち)が、来た時と同じ姿で帰るのでは、招いた意味がありません。わたしたちは、平和の君イエス・キリストに招かれて礼拝に集い、養われ、イエス・キリストを宿して帰って行くのです。主の愛を豊かに宿しましょう。
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まことの牧者

エゼキエル書34章11~16節

澤田直子師

主題聖句 「わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。」 エゼキエル書34章16節a
 主題聖句は、まさにイエス様の御業を表しています。そのため、この箇所を「クリスマス預言」として読むことができる、と考える研究者もいます。
 預言者エゼキエルは祭司の家に生まれました。しかし神殿祭司として働くことが許される30歳頃には、バビロン捕囚としてケバル川のほとりに住んでいました。そこで幻を見せられ、召命を受けて預言者として活動を始めたのです。
 34章の始まりは、国を治め導くべき人々が、その使命を果たさず、その権力を神に喜ばれる形で使わなかったことが述べられています。その結果として、故郷を遠く離れて捕囚として連れて来られた人々に対して、神は「わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。」と言われます。ここには、他に誰もいないというならば、というような強い意志が表れています。
 「雲と密雲の日」とは慣用句で、大きな災厄の中にあって先が見えない、希望が持てない様子を言い表す言葉です。そういう日に散らされる。これは故郷を追われる、ということもありますが、神様の御前から散らされることも含まれています。わたしたちも、いつそういう日に見舞われるかわかりません。新型コロナウイルスに散らされる教会が、この先出ないとは言い切れません。
 13~15節は、詩篇23編とつながります。わたしたちと神様の関係が、いつもこの羊飼いと羊のようなものであったなら、何の心配も不安もないでしょう。しかし人間は時に神様よりも自分の不安を凝視し、目先の勝ち負けに囚われて肝心なことを見失います。羊が迷うことに対して、神様には全く落ち度はありません。でも愛のゆえにその落ち度を引き受けてくださるのが神様です。まことの牧者に養いを求め、信じ、従いましょう。
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主は平和を宣言される

詩編85編

澤田 武師

主題聖句 「わたしは神が宣言なさるのを聞きます。主は平和を宣言されます。御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に 彼らが愚かなふるまいに戻らないように。」 詩編85編9節
 「主は平和を宣言されます。」それは神様はここにおられるとの宣言です。神様の本質は愛であり、見返りを求めない、人を区別しない愛です。神様の愛は平和を創り出します。それはこの世の力や技術で創り出すことは決してできないのです。神様は私たちに、神様の御元にしか、あなたたちが求めている「神様の平和」はあり得ないと、語り続けていてくださいます。
 パウロはローマの信徒への手紙の中で、「正しい者はいない。一人もいない。」と書いています。私たちは、肉の体を持っている以上、意識しない罪も犯します。私たちは罪人です。その私たちの罪の贖いのため、救いのために、イエス様は十字架に掛かられました。その御心を知っていてさえも、繰り返し罪を犯してしまう、私たちは愚かな者です。
 人類の愚かなふるまいと過ちを、歴史は記録に留めます。75年前の今日、8月9日11時2分、広島市に続いて長崎市に二発目の原子爆弾が投下されました。約8万人の尊い命が失われました。75年後の今も苦しむ人がいます。それなのに人類はその後も、平和のためと正当化して核兵器を作り、今も保有しています。神様が私たちに「平和を宣言される」のは、二度と「彼らが愚かなふるまいに戻らないように」させるためなのです。
 「彼らが愚かなふるまいに戻らないように。」広島、長崎への原爆投下は決して繰り返してはならない日として記憶されます。この愚かなふるまいが、長崎の被爆が、人類最後の愚かな日でなければならないと、主は宣言されます。
 神様はまず、御自分の民に、主の慈しみに生きる人びとに、平和の宣言を伝えます。ここに記されているのは私たち、神様の愛を知った者、イエス様の十字架の贖いと救いに生かされている者たちです。神様の平和を知って、待ち望んでいる者たちです。私たちに託された主の平和を、隣人に伝える者となりますように、遣わされる場で担うものとなりますように。
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平和に暮らしなさい

ローマの信徒への手紙12章9~21節

澤田 武師

主題聖句 「できれは、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」 ローマの信徒への手紙12章18節
 9節「愛には偽りがあってはなりません。」/strong>パウロほど神様の愛を真剣に受けとめた人物はいなでしょう。復活のイエス様はダマスコ途上でパウロと出会ってくださり、パウロはただ神様の憐みにより、主を伝える者に変えられました。
 教会はその最初から、多様性をもって誕生しました。初代教会は、厳しい身分差別社会の中でも兄弟愛が教会の一致を生み、組織を形成する力となりましたが、それでも、兄弟姉妹の間には対立は起こりました。
対立は人々に隔たりを作ります。「主に仕えなさい」パウロは、ただイエス様に仕えること、神様が示された愛、主イエスの十字架と復活にのみに仕えることを命じています。神様の愛は、隔てを壊し平安を与えてくださいます。
 20節「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。」敵の必要を自分自身の必要として与える。兄弟愛の実践を命じています。私たちの歩みにも、戦いはあります。パウロの勧めであってもその全てを実行することは到底できません。たとえ愛に生きたつもりでも、そこに自我が生じれば、愛は福音ではなく律法となり、人を裁くことに変質してしまいます。また、愛が無い自分自身を辛く思うこともあります。愛は完全には実践できません。
 パウロは、そんな私たちに18節「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」と語ってくださいます。愛は平和を作りだします。そのためには努力が必要です。しかし、私たちには限界があります。パウロは「できれば」とは、あなたが出来る限り、「せめて」とは、少なくともあなたはと、平和を作りだす愛は、相手の態度や結果を問題にするのではなく、あなたの最善を尽くしなさいと、励ましてくださいます。平和があるとか、ないとかの問題ではなく、平和を作りだす努力、兄弟愛に生きることが重要であると勧めてくださっています。
 「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」世界がこの御言葉の通りになった時代はいまだかつてありません。しかし、せめて私たちはこの御言葉を心に止めて、隔たりを壊し、平和を作りだす愛を現して行きましょう。
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