わたしの主、わたしの神よ

ヨハネによる福音書20章24~31節

澤田 武師

主題聖句 「イエスはトマスに言われた。『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。』」 ヨハネによる福音書20章29節
 弟子たちがイエス様を見たと言っても、トマスは自分自身が納得しなければ、決して信じないと断言しました。八日の後、「弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」イエス様は再び弟子たちの真ん中に立たれ、トマスの前に復活なさったお姿を現されました。
 「あなたがたに平和があるように。」それは、ユダヤの日常の挨拶でしたが、復活されたイエス様は、今弟子たちに向かって、神様の救いの御業が成就したことを伝えるお言葉として語られました。
 この時までトマス一人だけが、復活のイエス様にお会いすることが出来ませんでした。イエス様はお言葉をもって、トマスに迫ります。圧倒的な事実の前に、彼は心を打ち砕かれます。もう、お体に触れることはどうでもよいのです。トマスは、信仰告白をもって応答します。それは礼拝そのものです。
 この出来事は、キリスト教の礼拝がここに始まったことを意味しています。毎日曜日をイエス様が復活された喜びの日として、この朝も礼拝を捧げることに続いています。
 閉じ込められている現実にも、イエス様は訪ねて来てくださいます。今は共に集って礼拝をお捧げすることはできませんが、それぞれの家庭に、イエス様は訪ねて来てくださっています。そこは日常が行われる場所です。その日常の中に、礼拝は開かれます。それぞれのご家庭で守られています礼拝に、「平和があるように」と、変わらずにイエス様は、私たちを礼拝へと招いてくださいっています。トマスのように、イエス様を直接見ることは適いませんが、それぞれがお捧げしています礼拝を「見ないのに信じる人は、幸いである。」と言ってくださっています。今、家庭礼拝として、この朝も礼拝を守っておられる方々の上に幸いがありますように。所は異なりますが、共に「わたしの主、わたしの神よ」と告白する礼拝を感謝いたします。
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