聖霊が降ると

使徒言行録1章6~11節・2章1~4節

澤田 武師

主題聖句 「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」 使徒言行録1章8節
 永遠の命、神の国の存在を四十日渡り語り続けてくださったイエス様を前にしても尚、弟子たちは「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか。」と、この方がローマの支配下にあるユダヤを、力をもって解放してくださる時が来たと期待しています。人間の理解の限界です。
 しかし、イエス様はその弟子たちに「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりではなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」と、改めて約束された「聖霊が降る」時まで待つように言われました。
 「わたしの証人となる」、それはイエス様との関係をはっきりと示された者たちのことです。聖霊が弟子たち一人一人に降ると、それぞれが「自分の言葉で福音を語る者」に、人々に「証しする者」へと変えられました。彼らは福音を伝える力を受け、証しする言葉を備えられて、この時から使徒として、地の果てまで遣わされて行きます。
 ペンテコステの日、聖霊は人々を集め、礼拝を整え、御言葉を聞き、共に祈り、持ち物を分け合いました。一人一人の信仰が、この地上にあって誰にでも見える、神様の教会という形となりました。この時から教会は地上に存在し続けます。これからも!教会は神様の真理を伝えるところです。神様の真理によって集められた者が、証しする者が、共に歩むところです。教会は、そこに集う者が、聖霊によって改めて、自分自身が用いられている存在であると示されるところです。なぜ生かされているかを、知るところでもあります。
 神様にとって、あなたは必要なのです。だから先だって聖霊を注いでくださっています。「聖霊様、私の中で働いてください。神様がよく分かるように。イエス様の愛がよく分かるように導いてください」と、祈ってゆきましょう。その時、聖霊は豊かに働いてくださいます。あなたを、神様を知る者へと、証しする者へと変えてくださいます。
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その証は真実

ヨハネによる福音書21章20~25節

澤田直子師

主題聖句 「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。」 ヨハネによる福音書21章24節
 「イエスの愛しておられた弟子」とは福音書を書いたヨハネ自身のことです。イエス様が愛されなかった弟子などいませんので、これはヨハネの自慢話ではなく、イエス様の愛を自分の心の許す限り受け取って決して手離さない、そう言いたかったのではないかと思います。
 ペトロが「この人はどうなるのでしょう」と聞いたのは、たった今自分がどのような死に方で神の栄光を現わすかを聞いて、ヨハネにも何か大切なことを話されるのか、心にかけてのことだったと思います。しかしイエス様は「あなたに何の関係があるか」と言われました。
 ヨハネがこの問答を書き記したのは、当時、ヨハネはイエス様の再臨まで死なない、という噂があったことを知っていて、正確に、聞いたままに書き残さなければ、と思ったからでしょう。使徒たちは事実の証人であろうとしました。事実は一つしかありませんが、それを受け取る人間は、各々その事実から自分の真実を作り出します。人間の真実は時に間違い、人を裁き、道を誤らせることさえあります。それを知らないでいるのは危険です。
 しかし、誰が、何処で、どんな状況で証ししようと、必ず真実になる証しがあります。それがイエス・キリストです。第二テモテ2:13「わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否むことができないからである。」ですから、わたしたちはキリストの一部分しか知らなくても証しできるのです。
 人間の歩む道は、その人だけのオリジナルです。わたしと一緒に歩むのはただ神様のみ、「あなたは、わたしに従いなさい。」と命じられる主は、決して約束を違えることはありません。
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さあ、来て、朝の食事をしなさい

ヨハネによる福音書21章1~14節

澤田 武師

主題聖句 「弟子たちはだれも、『あなたはどなたですか。』と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。」 ヨハネによる福音書21章12節b
ヨハネによる福音書には、イエス様が弟子たちの前にお姿を現されたのは、この朝で三回目であったと記しています。弟子たちには、何も獲れない、生活の糧を得ることの出来ない失望の朝となりました。そこに「舟の右側に網を打ちなさい。」弟子たちには声の主は分かりませんが、信じて従った時、失望は神様の豊かな祝福へと変わりました。イエス様のお言葉「見ないのに信じる人は、幸いである。」ここにお言葉を信じた弟子たちが居ます。
ヨハネは、最初に声の主がイエス様であると分かりました。そして「主だ」と叫びました。ペトロはその声を聞いて、急いで湖に飛び込み、他の弟子たちは、大漁の網を引いて、舟と一緒に岸へと向かいます。岸に向かう方法は異なりますが、弟子たちはイエス様を目指して、それぞれが進んで行きます。彼らの姿はそのまま、後に使徒として用いられた姿に見えます。
ヨハネは福音書、手紙、黙示録を記してイエス様を「主だ」と証し続けました。ペトロは、ローマまで伝道に行って殉教し、後に初代のローマ教皇とされました。他の弟子たちも、イエス様の豊かな福音を携えて、それぞれの遣わされた場に出て行きました。
今世界では、新型コロナウイルス感染防止のために人と人の間に「2メートル」の距離を置くことが勧められています。離れることが勧められています。この様な状況の朝にもイエス様は、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と、変わらず私たちを招いてくださっています。イエス様のお声を聞きましょう。神の平安、計り知れない豊かさを与えるために、イエス様は今日も、私たちを招いてくださいます。
「さあ、来て、朝の食事をしなさい」イエス様は近づかれる者を拒みません。全ての者の不足を、豊かな祝福に、命の糧に変えてくださいます。この世の不足に、イエス様は備えてくださいます。イエス様を知っているということは、この世の不足を知らないということです。
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わたしを愛しているか

ヨハネによる福音書21章15~19節

澤田直子師

主題聖句 「食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、『ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか』と言われた。」 ヨハネによる福音書21章15節
 一晩の不漁に疲れた弟子たちに、主は朝食を用意して待っていてくださいます。「我らに日用の糧を今日も与えたまえ」と祈るように教えた主は、祈りに答えてくださるお方です。
 そうして肉体の疲れが癒された後に、イエス様はペトロと向き合います。三度イエス様を否んだペトロに、「わたしを愛しているか」と問われるイエス様。何と愛にあふれた問いでしょうか。
 もしこれが、悔い改めたか、とか、清められたか、と尋ねられたらペトロは答えられなかったでしょう。ペトロの言葉や行いがどうあれ、イエス様を愛していたことだけは間違いなかったのです。この問答は三回繰り返されます。三度目にペトロは悲しくなった、とあります。
 おそらく、三度イエス様を「知らない」と言った自分の姿をありありと思い起こしたのでしょう。わたしたちが、主に向き合って赦しを受けるのは恵みであると同時に悲しい事なのです。こんな者のために、主は命を捨てられたのか、という思い。赦された確信を持つために、主はわたしたちの罪の輪郭をくっきりとお見せになります。
 しかし、この悲しみは力に変わります。第二コリント7:10「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。」とあります。
 イエス様の復活は、そのまま、創世記の繰り返しです。ペトロは罪をゼロに戻していただいて新たに生まれ変わりました。そのために主がお確かめになったのは、ただ「わたしを愛しているか」ということのみでした。神の力は弱さの中にこそ完全に働きます。わたしたちの答えもペトロと同じです。わたしたちが主を愛していることを、主はご存じです。
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わたしの主、わたしの神よ

ヨハネによる福音書20章24~31節

澤田 武師

主題聖句 「イエスはトマスに言われた。『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。』」 ヨハネによる福音書20章29節
 弟子たちがイエス様を見たと言っても、トマスは自分自身が納得しなければ、決して信じないと断言しました。八日の後、「弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」イエス様は再び弟子たちの真ん中に立たれ、トマスの前に復活なさったお姿を現されました。
 「あなたがたに平和があるように。」それは、ユダヤの日常の挨拶でしたが、復活されたイエス様は、今弟子たちに向かって、神様の救いの御業が成就したことを伝えるお言葉として語られました。
 この時までトマス一人だけが、復活のイエス様にお会いすることが出来ませんでした。イエス様はお言葉をもって、トマスに迫ります。圧倒的な事実の前に、彼は心を打ち砕かれます。もう、お体に触れることはどうでもよいのです。トマスは、信仰告白をもって応答します。それは礼拝そのものです。
 この出来事は、キリスト教の礼拝がここに始まったことを意味しています。毎日曜日をイエス様が復活された喜びの日として、この朝も礼拝を捧げることに続いています。
 閉じ込められている現実にも、イエス様は訪ねて来てくださいます。今は共に集って礼拝をお捧げすることはできませんが、それぞれの家庭に、イエス様は訪ねて来てくださっています。そこは日常が行われる場所です。その日常の中に、礼拝は開かれます。それぞれのご家庭で守られています礼拝に、「平和があるように」と、変わらずにイエス様は、私たちを礼拝へと招いてくださいっています。トマスのように、イエス様を直接見ることは適いませんが、それぞれがお捧げしています礼拝を「見ないのに信じる人は、幸いである。」と言ってくださっています。今、家庭礼拝として、この朝も礼拝を守っておられる方々の上に幸いがありますように。所は異なりますが、共に「わたしの主、わたしの神よ」と告白する礼拝を感謝いたします。
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