永遠の命とは

マタイによる福音書2章1~12節

澤田直子師

主題聖句「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」 ヨハネによる福音書17章3節
 17章はイエス様の祈りです。ここまで弟子たちの方を向いて話しておられたイエス様は、「天を仰いで言われた」とあるように、天の父に向けて話し始めます。
 1~5節は、イエス様ご自身について、その使命とその成就について感謝を捧げている祈りです。ヨハネの福音書では、十字架の贖いの死を受難とは考えず、イエス様の地上の行いの中でも最も輝かしい栄光の業であるととらえます。
 実際には、まだイエス様は人間のお体で生きておられますが、もう間もなく弟子たちのもとから連れ去られます。そうなったら、この上なく愛し抜かれた弟子たちを守ることも教えることもできません。しかし、人と人との関係の完成形は、しっかりと結びつきながらも、別の道、それぞれの道を歩んで行ける、というところにあります。弟子たちも、イエス様のお言葉や行いに感心したり驚いたりする時は終わったのです。
 「永遠の命とは…」イエス様が言われた言葉ですから、間違いはありません。ここでの「知る」は知識ではなく体験的に知っていることを指します。わたしたちはそれなりに信仰的な体験を重ねています。しかしそれは、一人の人間の、限定的な体験です。時間にも能力にも限りのある人間が、神とイエス・キリストを体験的に知るなど、できるはずがありません。
 しかし、わたしたちの「わかる」「わからない」は、大して重要ではないのです。肝心なのは、神様が、イエス様が、わたしという人間を隅から隅までご存じだということ、そしてその上で「わたしの目にあなたは高価で貴い」といってくださり、十字架で命まで捨てて救ってくださったということです。それを自分に起きた恵みとして知ることが「永遠の命」です。
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勇気を出しなさい

ヨハネによる福音書16章25~33節

澤田直子師

主題聖句「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」 ヨハネによる福音書16章33節より
 ここでイエス様の告別説教が終わります。この後、復活されるまで弟子たちと言葉を交わすことはない、その最後に、イエス様は「勇気を出しなさい」とお命じになりました。
 25節の「これらのこと」とは十字架の贖いと復活の勝利と考えて良いでしょう。イエス様のお言葉や数々の癒しの奇跡はみな、十字架の贖いと復活を指し示すたとえでした。それだけでなく旧約聖書の諸々も、イエス様の十字架と復活を指し示します。しかしもう間もなく、例えではなくはっきりと十字架の死と復活が目に見える形で示されます。その出来事を神の御業の成就と信じる弟子たちは、もはやイエス様の後ろに隠れて祈る者ではなく、イエス様と並んで祈る者に変えられて行きます。
 イエス様は、十字架の前から逃げるであろう弟子たちのその先を見ていました。やがて聖霊を受けて福音伝道の働き人となる日のために、この告別説教を残していかれたのです。
 イエス様は27節で「あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。」とお褒めになり、32節で「わたしをひとりきりにする時が来る。」と予告されます。イエス様は弟子たちをあるがままに愛し抜かれました。良い悪いの評価はそこにはありません。自分の都合で良し悪しを言い立てるのは人間の業です。
 イエス様ははっきりと「世で苦難がある」と言われました。信仰者の戦いには不戦勝はありません。悪しきものとの戦い、自分との戦いに臨まねばなりません。しかしイエス様は十字架の上で勝利を勝ち取られるのですから、それを信じる者もまた、勝利が約束されているのです。勇気を出しましょう。
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願いなさい。喜びなさい。

ヨハネによる福音書16章16~24節

澤田 武師

主題聖句「今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」 ヨハネによる福音書16章24節
 「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」イエス様のお言葉には、十字架の受難と復活とが現されています。イエス様は弟子たちに語り続けて来られましたが、弟子たちには、今もお言葉の意味は分かりませんでした。
 「はっきり言っておく」ヨハネによる福音書の特徴の一つを表す言葉です。続きます言葉が、重要なことを伝えています。
 一般には「良い事」は続くことを願いますが、現実には幸いとなるか、災いとなるかは、私たちには予測が出来ません。世に起こる出来事は、互いに関係をもち、相互に変化し続けているということです。
イエス様のお言葉は過去形で記されています。それは必ず成就するからです。イエス様は弟子たちの「今の悲しみ」は、「再びあなたがたと会う喜び」に変わると語られます。イエス様は全てが喜びに変わることを、約束されました。
 「その日」とは、約束の聖霊が降り、弟子たちは使徒として歩み始める時です。聖霊は、イエス様のお言葉を、弟子たちにはっきりと分かるように働かれました。「今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」との約束です。イエス様の名によって願うことは、喜びへと続きます。
 イエス様の勧めは弟子たちだけでなく私たちにも与えられています。クリスチャンはイエス様のお名前によって祈ることを、願うことを許された者です。また、願いは祈りと続きます。そして、祈りは喜びへと変わります。
 私たちは再びイエス様のお姿をはっきりと見る、再臨の時を待っています。その時がいつ来るのかは分かりません。イエス様は「またしばらくすると、わたしを見る」と弟子たちを励まされました。それは、約束であり全てのものが喜びへと変わる時でもありました。私たちも待ちます。神様の時を待ちます。その時まで祈りと喜びに満たされた歩みをつづけましょう。
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宝の箱を開ける

マタイによる福音書2章1~12節

澤田 武師

主題聖句「彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」 マタイによる福音書2章11節b
 マタイによる福音書には、「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。」と、旧約聖書のメシア誕生の預言が今まさに成就したことが記されています。そして「占星術の学者たちが東の方からエルサエムに来て」学者たちは、星の導きによって知らされたメシア誕生を祝う礼拝を献げるために、メシアは何処に居られるかをヘロデ王に問います。ヘロデ王は知りませんでした。彼は不安を抱きます。不安はエルサレムを覆うことになったと記されています。しかし、同時にクリスマスが、異邦人世界に最初に伝わった出来事にもなったのです。
 故郷を旅立った第一歩目から、砂漠を越え、幼子イエス様を探し当てるまで、彼らは既に多くの時と財とを献げています。メシア誕生をお祝いする礼拝はただ一度きりであり、彼らは願いがかなって喜びに満たされました。イエス様を礼拝することは、いつの時代であっても喜びです。
 彼らが捧げた黄金、乳香、没薬は、大変高価な物です。この世では宝ですが、その理由でイエス様に献げられたのでありません。
 黄金は王の印として、乳香は祭司の象徴として、没薬は十字架のメッセージとして、それぞれがイエス様のお姿を現すのにふさわしいものとして、献げられました。
 神様は私たちにも宝を与えてくださっています。まず神様が私たち一人一人を創造された時、賜物をも備えてくださいました。そして何よりもイエス様の十字架の死と復活を経て永遠の命をくださいました。私たちが作り出すこの世の宝は、使えば無くなってしまいますが、神様の宝は、使っても減ることはありません、永久に変わりません。
 占星術の学者たちが喜びの中で、宝の箱を開けたように、私たちも与えられた宝をイエス様の前に感謝をもって献げましょう。日々の歩みの感謝は、礼拝へと続きます。命も賜物も、神様から与えられたものです。礼拝は私たちの宝の箱を、何時も満たしてくださいます。
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