真理を悟らせる

ヨハネによる福音書16章1~15節

澤田直子師

主題聖句 「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。」 ヨハネによる福音書16章8節
 16章は迫害の予告の続きです。会堂を追放する、というのは、単に宗教的な集まりだけを指すのではなく、ユダヤ人社会全体から外され、異邦人と同じに扱われることを示しますから、非常に屈辱的なことです。しかもイエス様は、迫害する方は、それが神のみ旨に適うことだと信じてそうするのだ、と言われます。
 それは、彼らが神を知らないからです。「知る」とは、聖書では深い関りを持つことを指します。言葉だけで「神」と言う時、人間は薄っぺらな自分の正しさにこだわり、攻撃的になります。
 イエス様は「弁護者」を送る、と言われます。それは、世の誤りを明らかにし、また真理をことごとく悟らせる。真理とは何でしょうか?14章6節でイエス様ご自身が「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われました。
 イエス様が神の独り子でありながら、地上に生まれ、十字架で死に、復活された、それほどに、わたしたちを救いたいと熱望し愛された、それが真理です。これは人間の理解を超えています。神に属する事柄ですから、わたしたちは信じ受け入れることしかできません。
 送られた聖霊を受ける時、わたしたちは変えられます。エフェソ5:8「あなたがたは、以前は暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」これは、わたしのことです。暗闇にいた時、わたしたちは、人にどう思われるか、言われるか、自分の思いが通るか通らないか、世のことを気にして惨めなものでした。しかし今は違います。神の義を知りました。光の中で、何も恐れるものはありません。イエス様の送られた聖霊は、今わたしをどこに導いているでしょうか。真理に導く光を目指して、アドヴェントを迎えましょう。
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支配か、理解か

ヨハネによる福音書15章18~27節

澤田直子師

主題聖句 「あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。」 ヨハネによる福音書15章27節
 キリスト教は、関係性を作ることを求めます。かつてマザーテレサは「愛の反対は無関心です。」と言いました。イエス様は、ご自分の責任において弟子たちを選びました。ですから、弟子たちもわたしたちも、出て行って隣人に仕えようとする時、初めから終わりまで主体はイエス様にあります。
 そのゆえに世から憎まれる、とイエス様は予告されました。「憎む」というのは、排除しようとするのではなく、より強く支配しようとする感情です。最初はイエス様に奇跡を求めてついて来た群衆が、最後には「十字架につけろ」と叫ぶ。思い通りにならないことに腹を立て、敵意を向けて怖がらせ、支配しようとするのです。そしてわたしたちは世が支配しようとする様々なシステムに生まれた時からさらされて、いつの間にか慣れて、時にはそれを利用します。
 イエス様は、安全だからといって自分たちだけの狭い世界に閉じこもって信仰を深めることはお求めになりませんでした。世界を閉じることは、最初に見えていたことが見えなくなる危険があるからです。わたしたちは、イエス様から流れてくる命の水を止めることなく、イエス様のお力にたよって、世に流し続けることを勧められています。
 この世は、わたしたちを支配しようとします。数字でわかること、物事を単純化して、分かりやすいことに閉じ込めて、その中で生きて行くことが楽だ、と説得しようとします。しかし神様の思いはそうではありません。イエス様は、わたしたちを理解したい、そしてイエス様を理解してほしい、と願っておられます。聖霊はその最大の助け手となって、イエス様の言葉や行動を証ししてくださいます。聖霊と共に、世に証しする者となりましょう。
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あなたを友と呼ぶ

ヨハネによる福音書15章11~17節

澤田 武師

主題聖句 「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」 ヨハネによる福音書15章15節CD
 ザアカイやニコデモ、出血が続いていた女性たちは、イエス様に会う決心を固めて、手段を選びイエス様に近づきました。その時の彼らにとって、イエス様は遠い存在でした。今、弟子たちを前にして、「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」と、イエス様は語られます。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」このお言葉には、愛し抜かれた弟子たちと共に歩み続けてこられたイエス様の、弟子たちに対して惜しみなく語り続けてこられたお気持ちが表されています。
 「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」イエス様ご自身が、救いを求める者のために十字架に架かられ、生命を差し出してくださいました。そのイエス様が、弟子たちを「友」として選んでくださいました。まことの掟を守る者として、互いに愛し合う者として、信仰の実を結ぶ者として、イエス様は弟子たちをお選びになりました。ここに神様の愛が表されました。
 イエス様と共に歩んできた弟子たちは、十字架の前から逃げ去ってしまいます。友と呼んでくださったイエス様を棄て去ってしまいます。しかし、復活された後イエス様は、「わたしに従いなさい」と、弟子たちを変わらない愛をもって受け止めてくださいました。
 私たちのためにも生命を差し出してくださった方は、私たちをも「友」と呼んでくださるお方です。イエス様は遠く居られる方ではなく、わたしの近くに、共に歩んでくださるお方となられました。
 イエス様はご自分を信じる者すべての「友」となってくださろうとしています。その意味ではこの世には「孤独」はありえません。すでに私たちはイエス様の「友」とされた者なのです。ヨハネの黙示録には「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。」とあります。イエス様は待っておられます。あなたがイエス様の友となるために。扉を開けるのはあなたです。
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わたしと共にある神

コリントの信徒への手紙一15章1~11節

澤田 武師

主題聖句 「これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。」 コリントの信徒への手紙一15章1節b
 コリントの教会では、「主の復活を否定する」信仰の乱れが起こりました。パウロは、「わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。」と、福音の中心である教義について、「主イエスは復活された」と改めて強調します。
 人類は、自分たちの「死」を、最も重要な問題としてきました。医学はあらゆる手段を用いて「肉体の死」からの解放を課題とし、現在は細胞や遺伝子レベルの研究から、「生命の再生」を目指しています。しかし、今なお人類には解決できない問題として「死」は存在しています。
 聖書が語る「死者の復活」について、一般的に「死」が存在している以上、なかなか信じることができないものです。しかし福音は「復活」の信仰抜きにしては語ることはできません。「復活」は、肉体の死の先にあるものです。そしてそれは、神様の愛が主イエス・キリストの十字架による死と、復活によって顕わされた、ということです。
 パウロは、主が復活された事実を受け入れることにより「魂の救い」が与えられ、復活の命を拠り所とする生活は、信仰をまっとうさせる、と説きます。そして再臨の時に、完全な体として私たちも復活すると。信仰とはこの福音に生きることであると語ります。
 また、パウロ自身も、復活のイエス様と出会って、誰よりも福音を宣べ伝える者として変えられた証詞者であると語ります。
 私たちの身近にも、信仰の証詞者はたくさん居られます。神様は私たちのために、大切な独り子イエス様を十字架に架けて、その命によって贖ってくださいました。信仰の生涯を生き抜いたという意味において、天に帰られた兄弟姉妹は「聖徒」と呼ばれるにふさわしい方々です。「復活の永遠の命に共に生きる。」この信仰をよく表したのが、「聖徒の日記念礼拝」ではないかと思います。既に故郷である天上に帰られた「聖徒」たちと、地上に歩む私たちと共に礼拝を捧げる主日です。十字架を見上げて、神様と共に歩んで行きましよう。
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