『一緒にいるよ』との約束

ヨハネによる福音書14章15~19節

澤田 武師

主題聖句 『しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。』 ヨハネによる福音書14章19節
 イエス様は弟子たちの性格を見抜いておられ、その信仰の弱さをも知っておられました。だから、「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」と、弟子たちに語られました。「わたしを愛しているならば」と、そこに弟子たちがまだ知ることの出来ない、自分たちの信仰の弱さを、イエス様は示されます。
 この後、イエス様が天に帰られ、弟子たちの目にはお姿が見えなくなります。「わたしの掟」、それは、イエス様のお言葉、福音を思い出し、そして、具体的には「互いに愛し合う」ことを実践する者として生きることを弟子たちに命じるお言葉です。
 イエス様は「愛」は「行動を起こさせる」、その行動こそがイエス様への「愛」を証詞することになる。あなた方は、わたしの愛を知っている。既に「わたしの掟を守る者」となっていると、約束されています。
 イエス様は十字架に掛かられる前に、聖霊が降ることを教えられ、聖霊を受け入れる者は「聖霊の豊かな実」を結ぶ者となり、一方、受けいれない者は「肉が犯す罪」すらも分らない者となってしまうことが、ガラテヤの信徒への手紙の中に記されています。
 「わたしの父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと…。この方こそ、…。」「弁護者」という言葉は、元々は裁判用語で、被告の「いつもそばにいる者、絶えず助けをする者」という意味です。イエス様は、「わたしに代わって、聖霊(弁護者)を送る」と、約束されました。
 「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」イエス様は絶えず私たちのために、祈り続けてくださっています。そして、永遠に聖霊を通して御言葉が与えられると約束されています。人生の最後の時ですら「聖霊」は、働いていてくださいます。地上の生命から、神様の命へと、その希望を持って行く。永遠の命に生きる。そこに聖霊の約束があります。
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大きな業を行う

ヨハネによる福音書14章8~14節

澤田直子師

主題聖句 「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」 ヨハネによる福音書14章12節
 フィリポの「御父をお示しください」という言葉は、直接神様を見たら死んでしまうと信じられていたので、何かのしるしによって神を現わしてほしいと願ったのでしょう。イエス様はずっと一緒にいて、何を見てきたのか、と問いかけられます。
 イエス様は、わたしの言葉が信じられないのなら、業によって信じなさい、とハードルを下げてくださいます。ここからが不思議なお言葉で、イエス様を信じる者は、イエス様と同じ業を、もっと大きな業を行う、と言われます。しかし、わたしたちは、嵐を静めたり死んだ者を生き返らせたり、わずかな食べ物で5000人を養うようなことはできません。
 イエス様は、これらの業はご自分を通して神の働きが表れている、とおっしゃるので、わたしたちがイエス様のように完全に自分を神に明け渡すことができれば、あるいは奇跡を起こせるのかもしれません。
 ある神学者は「もっと大きな業」とは福音の広がりを指している、と考えます。確かに、イエス様の公生涯3年と少しでは、パレスチナ地方にしか宣べ伝えられなかった福音が、聖霊の時代使徒の時代には、当時の世界中に広がり、400年を経て世界的な宗教に発展しました。
 しかしもう一つ、イエス様と神様との間よりも、わたしと神様の間の方が圧倒的に遠い、にもかかわらず、神に明け渡したい、明け渡そう、とする時、その祈りの必死さが、イエス様の業よりも大きくなるのではないでしょうか。また、己が貧しさを知るならば、内なるイエス様の存在により頼まざるを得なくなり、そういう信仰者の祈りは、「御心に沿うならば」となっていくでしょう。その祈りを、イエス様は「わたしの名によって願うならば」と受け入れてくださるのです。
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道・真理・命

ヨハネによる福音書14章1~7節

澤田直子師

主題聖句 「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。』」 ヨハネによる福音書14章6節
 14章の1~3節は、イエス様が天にわたしたちの真の家を用意して、迎えに来てくださることが記されています。弟子トマスの性急な愚かな問い「わたしたちにはわかりません。」に対して、イエス様は「わたしは道であり、真理であり、命である。」とお答えになります。短いお言葉ですが、それぞれの単語を強調しています。
 「道」とは。イエス様は道を教えてくださるのではありません。イエス様ご自身が天の家に行く道なのです。わたしたちに踏みしめられながら、父なる神へ導いてくださる。これほど確かな道はありません。「真理」とは。わたしたち人間は、真理を持たず、知ることもできません。もし真理を知っていると思ったら、それはとても危険なことです。歴史の中に、そういうまちがいをたくさん見ることができます。真理そのものであるイエス様を知っていれば、それだけで天の国に行くには十分です。
 「命」とは。イエス様はアルファでありオメガであり、命の終わりと始まりをつなげることのできるお方です。イエス様が、まことの命、永遠の命をくださるのは、立派な信仰者だからではありません。ただ、わたしたちを愛しておられるからです。「わたしの目にあなたは高価で貴い」イザヤ43:4
 これらの御言葉は、高尚な議論から生まれたものではありません。理解の遅い弟子たちに教えられた言葉です。わたしたちの信仰が拙かろうが、知識が貧しかろうが、イエス様が真実なお方である以上、その問答は真理を示すものとなるのです。ですから、わたしたちは、自分の小ささ、貧しさを嘆く必要はありません。イエス様さえ知っていれば、イエス様の元に行けば何とかなる。これが信仰者の希望、大いなる恵みです。
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命を吹きこむ

ヨハネによる福音書13章36~38節

澤田 武師

主題聖句 「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」 ヨハネによる福音書13章38節b
 新約聖書のギリシア語では、日本語で「命」と訳される単語に“ゾーエ”“プシュケー”“ビオス”という三つの言葉が使い分けられています。
 「あなたのためなら命を捨てます。」ペトロが叫んだ「命」は、プシュケーという言葉です。プシュケーは、元々は「魂」また「息」という意味です。
後に人間としての存在、人間性、生活など幅広い意味を持つ言葉となりました。
 ペトロの言葉を言い換えるならば、「私はあなたを深く愛して、あなたを離れまいと決めています。あなたと一緒ならば、身代わりとなって死んでもいい。人間としての存在をイエス様のためなら、捨て去ってかまわない。生活をすべて捧げろと言われたら、その通りします。それだけの覚悟はできています。」この言葉はペトロの真実であり、確信をもって実行できると思っています。
 しかし、イエス様はペトロに言われました。「はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう。」イエス様はこう言われています。「あなたは自分の弱さ、もろさをわずかしか知ってはいません。まさにこの夜、鶏が鳴く前にあなた三度わたしを知らないと言うでしょう。私のために命を捨てるなどとはかけ離れて、自分の生命のために、私を知らない、と臆病な答えをして、わたしとあなたとの間の命を捨てることになります。それは、体の生命を失うよりもつらいこととなります。」この後、イエス様のお言葉通りに、ペトロの信仰の命は打ちのめされます。
 その弱きペトロに、復活されたイエス様は「平和があるように」と愛を与えられました。私たちもペトロです。私たちの心の内にも多くの弱さがあります。私たちは、自分の心の弱さを認識していないゆえに、高慢になります。誘惑を受ければ、どこまでも堕落してしまう者であることを、決してわかってはいないことを、もう一度知りましょう。弱き私たちのために、イエス様は十字架に掛かってくださいました。私たちにも神様の愛を示し、実践する者となるために、イエス様は「永遠の命」を私たちにも吹き込んでくださいます。
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互いに愛し合いなさい

ヨハネによる福音書13章31~35節

澤田 武師

主題聖句 「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」 ヨハネによる福音書13章34節b
 ユダは闇夜に出て行きました。イエス様は、残った弟子たちに「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。」と語られます。それは、十字架への道が「今」整ったということです。ヨハネによる福音書では十字架を「栄光」と伝えますが、実際の十字架刑は、酷く悲なもので、人類が考えた最も「残酷」な刑罰とも言われます。「今」の弟子たちには、イエス様の「栄光」の意味を知ることは出来ません。
 イエス様は父なる神様のみ旨に従い続けて、「栄光」の十字架へと進まれます。そこには、地上におられるイエス様と、神の国におられる神様との間に、確かな絆があることが示されています。
 「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」これはイエス様が愛を貫かれ、弟子と呼んで共に歩み続けてきた者たちに残していかれる新しい掟です。
 イエス様の昇天後、使徒として各地に散らされて行った弟子たちは、イエス様が約束されたお言葉を伝え続けました。そこにもイエス様を信じる者たちの集まりが起こされました。
 ヨハネによる福音書では、はっきりとした教会論は記されていません。今イエス様が弟子たちに託されたお言葉は、天の父なる神様とイエス様の絆、それは神の国と地上を結ぶ縦の絆です。そこに、地上に残る弟子たちの「互いに愛し合う」ことが、この地上に広がってゆき、「愛し合う者」たちが横の絆を築きます。この二つが交わった所に、「栄光」の十字架が立ちます。それは地上の神の国、「教会」の誕生を表します。
 イエス様は、弟子たちが十字架の意味をはっきりと知るまで、愛し抜かれました。私たちも互いに愛する者として、十字架の意味を知ることを信仰生活の第一として歩んでいきましょう。お互いに励まし合いながら、愛し合いながら、イエス様の十字架の意味をはっきりと知ることが出来るように、共に交わりの中を歩んで行きましょう。
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