自分の栄光は求めない

ヨハネによる福音書8章48~59節

澤田直子師

主題聖句 イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生れる前から、『わたしはある。』」
        ヨハネによる福音書8章58節

 ここは、ユダヤ人がイエス様を侮辱する言葉から始まります。その悪口に対するイエス様の答えは「わたしは自分の栄光は求めていない」というものでした。イエス様がお生まれになった夜に、天の大軍が賛美したのは「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」イエス様は、地上のご生涯の始めから終わりまで、ご自分の栄光は求めないお方でした。本来、信仰とは、人を柔和にするもの、謙虚に、考え深く導くものではないでしょうか。しかし、ユダヤ人が自分たちの信仰と信じているものは、彼らを間違った方向へと連れて行きます。自分を優位におこうとし、従わない者を罪に定めようとします。自分の都合の良いように「信仰」を用いているのです。
 イエス様の信仰は、具体的な言動にすれば「栄光を神に返すこと」「神の前にへりくだること」「隣り人を分け隔てせず寄り添うこと」でした。イエス様は同じことをわたしたちに求めます。「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない」ここで言う「死」は、肉体の死ではなく、神との絶対的な永続的な断絶です。この死から逃れるためには、わたしたちはこの地上の歩みから整えられなくてはなりません。律法学者たちのように、立派な事を言いながら他人の罪をあげつらっているのでは、自分の栄光を求めることになってしまいます。
 肉体にも知識にも20歳台にピークがあり、そこを越えるとあとは下降していきます。いろいろ工夫してその角度を緩やかにしようとしますが、やはり限界があります。しかし、霊的な成長には終わりがありません。聖い霊は、神とのつながりを前提として存在するものですから、ローマ11:36『すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです』とあるように、神を指し示して行くのです。イエス様のヘリ下りをわがものとし、栄光を天に返しつつ、天に向かって歩みましょう。
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真理の言葉、偽りの言葉

ヨハネによる福音書8章39~47節

澤田直子師

主題聖句 『わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。』
        ヨハネによる福音書8章43節

 ユダヤ人は「自分たちはアブラハムの子孫だ」と訴えます。イエス様は、彼らにあなた方の行いによってあなた方の父が誰かわかる、と言われます。
 わたしたちの耳は大変良くできていて、自分が聞きたいと思う音を、たくさんの音の中から拾い出すことができます。イエス様はユダヤ人に「わたしの言葉を聞くことができない」と言われました。ユダヤ人は、別の声を拾っているので、イエス様の声は聞くことができなかったのです。
 ユダヤ人が聞いていたのは悪魔のささやきでした。自分の名誉・地位を守ろうとして、そのためにイエス様を殺そうとして、真理であるイエス様ではなく、悪魔の声を聞き、従おうとしていたのです。
 47節『神に属する者は神の言葉を聞く』有名な御言葉です。神に属することと神の声を聞くことは、車の両輪のようなもので、どちらか一方ということはありません。わたしたちが生きる世には、神の言葉以外のものがあふれています。わたしたちは、その中から神の言葉を聞きだしたいものです。旧約聖書列王記上19章にヒントがあります。命を狙われてホレブ山に逃げた預言者エリヤが、神の声に呼び出されて洞穴から出てくると、主が通り過ぎて行かれます。激しい風に山が裂け岩が砕けますが、そこには神はおられなかった。次に地震が起こり、火が燃え上がります。しかしそのどちらにも、神はおられませんでした。火の後に、静かにささやく声が聞こえた、と記されています。
 耳と心が騒動の中にある時、わたしたちは主の御声を聞くことができません。また、もっと恐ろしいのは、貸し与えられている御言葉を口にする時です。世界を創られた神の言葉には遠く及びませんが、わたしたちの言葉も力を持つのです。自分の思いを通そうとして、聖書を便利に使うようなことがあってはなりません。今、わたしの耳は真理の御言葉を聞いているか。わたしの口は真理の御言葉を話しているか。吟味しましょう。
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こどもを祝福する

マルコによる福音書10章13~16節

澤田 武師

主題聖句 「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
        マルコによる福音書10章15節

 この出来事から3つのことを学びたい。最初は如何なるものも、イエス様の祝福に近づく“妨げにはならない”ということです。たとえそれがイエス様のためを思っての行動であっても、祝福に近づくことを妨げる理由にはなりません。逆に、祝福に近づくことを妨げる理由は、わたしたちの身近に幾らでもあるとも言えます。
 次に“受け入れる者でなれば、入ることはできない”ということです。“子ども”と訳されている言葉は、“小さい者、弱い者、神の前に誇る何物をも持っていない者”との意味を含んでいます。
 ユダヤでは、子どもは“律法に関しては無知であり、それゆえ、律法に照らして神の前に功績を持ち得ない者”と定義され、その存在だけでは祝福を受けることから除外される者として見られていました。
 しかしイエス様は、“神の国”“子どものような者たちのものである”と言われます。ただ神様の愛にすがる者、自らの努力ではなく、神様の愛を信じる事でしか生きてゆけない者たちのものであると言われました。
 最後に“祝福は増し加え与えられる”ということです。せめてわが子をイエス様に触れて貰いたいとの親の思いに対して、イエス様は子どもたちを抱き上げ、手を置いて祈られた。祝福が増し加えられて与えられました。
 マルコはイエス様が唯一“憤った”出来事であると記しています。イエス様は母マリアとの地上での生活の中で、親の愛、子どもの成長を祈る気持ちを十分に受けておられました。見返りを求めず、ただ子どものために、一方的に与える母親の愛。それを阻止しようとする行為に“憤り”を覚えられたのでしょう。子どもを思う親の気持ち、祝福を願う親の気持ちを十分に知っておられました。
15節「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」神様の愛は “小さい者、弱い者、主に委ねようとする者”に与えられます。神様は私たちのために、イエス様を十字架に架けても、ご計画を実行しようとされました。私たちにも、祝福が増し加えて与えられています。
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この花の一つほどにも

マタイによる福音書6章27~30節

澤田 武師

主題聖句 「しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、
        この花の一つほどにも着飾っていなかった。」   マタイによる福音書6章29節

 弟子たちにとっては特別に意識せず、見過ごしてしまうような空の鳥、足もとに咲く野の花の存在に、イエス様は視線を注いでおられます。イエス様は、そこに咲いている一つの小さな花を指さされて弟子たちに「注意して見なさい」と言われました。鳥も花も神様が創造された世の始めから何も変わらず、繰り返し同じ生き方を続けています。
 イエス様が指さされた花は、パレスチナの丘陵地帯にたった一日だけ咲くアネモネの花だったと考えらえます。朝に咲いて夕方には枯れてしまう、その後は、かまどの焚き付けとなって燃やされてしまいます。神様はこの花の一日に、永遠の命を咲かせます。花は神様の命を美しく輝かせて、精一杯咲くのです。
 イエス様は「言っておく」と前置きして、最も富と知恵とを兼ね備えた人物、ユダヤのソロモン王が生涯をかけて作り上げたものであっても、それは所詮人間が作り上げた美しさであり、神様の永遠の命の美しさには勝ることができないと言われます。イエス様はこの花の姿から、「永遠の命に生きる」とは、何かを示されました。
 一日限りを生きる花でさえ、神様は惜しみなく祝福を与えてくださる。イエス様は弟子たちに向かって「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる花でさえ…装ってくださる。…あなたたちはなおさらではないか」と言われました。今わたしたちが聞いているこのお言葉は、かつて地上で神様の命を輝かせ、信仰者の生涯を歩まれ、そして今は主のみもとで永遠の命に生かされている「聖徒」の兄弟姉妹も聞いたお言葉です。
 神様は大切な独り子イエス様を十字架に架けて、その命によって私たちを贖ってくださいました。「聖徒」の兄弟姉妹はイエス・キリストを主と受け入れて、十字架で示された「復活」による永遠の命を希望と信じて、それぞれの信仰の生涯を歩まれました。
 イエス様が指さされる一つの花を見る時、そこには神様の永遠の命があります。永遠の命に生きる希望は、私たちの目にも輝いているのです。
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