聖書に書いてある

ヨハネによる福音書7章25~31節

澤田 武師

主題聖句 「メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか。」
                                                       ヨハネによる福音書7章42節

 イエス様のお言葉もお姿も記されていない聖書個所は重要なのでしょうか。このところには今も変わらない、イエス様を信じようとしない現実が表されています。
 日本人は知識ではイエス・キリストを知ろうとします。クリスマスも盛んに祝われて、完全に日本の習慣となっています。しかし、何のお祝いなのかを多くの人たちは知ろうとはしません。また最近、雑誌でキリスト教特集を組むと、売り上げが伸びるとのことですが、実際に教会へ行く人数は変わらないのではないでしょうか。信仰としてのイエス様は必要ないと思っている人が多いことを表しています。
 イエス様を世界の哲学者の一人としての知識の中だけに閉じ込めて、信仰としては受け入れられないのが日本人の特徴かもしれません。
 祭司長たちとファリサイ派は、イエス様を自分たちの律法という知識の中だけの存在としたいのです。イエス様の福音は、実際、彼らの権威を失わせました。その時彼らは妬みによりイエス様を十字架につけました。信じれば救われるお方が目の前に在りながら、彼らは福音を必要とは思いませんでした。
 下役たちやニコデモの姿はどの様な時代でも生きている信仰者を表しています。下役たちは唯一のイエス様を知った時から、自分たちに与えられた新しい使命に従ったのです。唯一のイエス様を証しするためには何をしたらよいか。彼らにはイエス様の権威に従い、命をかけてイエス様を証しする勇気が与えられました。
 ニコデモは、その知識を使って、祭司長たちとファリサイ派にイエス様と直接話をする口実を作ろうとしています。それは、イエス様に出会った者が変えられる事実を知っているからです。変えられた信仰者は知恵を使って伝道を進めます。
 聖書を読む時の極意は、聖書を読んでいる私自身が、今聖書のどこにいるかを思うということです。不思議と、思ってもいなかった人物に自分が重なる時があります。聖書があるから、説教は人の言葉でなく、神様のお言葉として語ることが許されます。他人事ではなく自分のことになるのです。
 あなたは今、聖書のどこにいますか。下役たちの中ですか、ニコデモですか。あるいは祭司長、ファリサイ派、それとも群衆の中ですか。私たちの姿も聖書の中に書かれています。是非見つけ出してください。
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生きた水が流れる

ヨハネによる福音書7章37~39節

澤田直子師

主題聖句 『わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が
        川となって流れ出るようになる。』  ヨハネによる福音書7章38節

 仮庵祭は収穫祭ですから、祭りの最後には雨乞いの儀式がありました。祭司が祭壇に水を注ぐ音を皆が聞いている中で、イエス様は「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」と招きました。イエス様は、雨を求める人々に、あなたの心は、魂は渇いていないのですか、と呼びかけたのです。4章のサマリアの女の話と同じです。
 イエス様に渇きを癒された信仰者に、次にどのようなことが起こるか。その人から生きた水が流れ出します。これはエゼキエル書47章にある、神殿の敷居の下から流れ出る水のイメージです。450m先では膝まで、さらに腰まで、最後には泳がなくては渡れないほどの大きな川となります。そして、両岸には木が生い茂り、いつでも実がたわわに実る、夢のように豊かな光景です。その水の流れるところではすべてのものが生き返る、そこには死がありません。
 わたしたちがイエス様のところへ行って飲ませていただき、次にはわたしたちの内から流れ出る生きた水は、このようなものなのです。
 わたしたちは、自分の力で渇きを癒すことはできません。わたしたちにできるのは、外から来る水を受け取ることです。イエス様のところに行くのは、イエス様が生きた水をお持ちだと信じるから、その水を必ずわたしにくださる、と信じるからです。いただいた水がいつ、流れ出るのか、それはわかりません。しかし高い山に降った雪が、春に溶けて地面にしみいり、伏流水となって遠くで湧き出るように、主は、わたしたちの渇きを癒すことで、わたしたちを用いて、誰かの渇きに届こうとしておられるのです。聖書では、たくさんの人がイエス様と食事をし、また癒され、教えを受けました。イエス様は高い所から見下ろすのではなく、わたしたちと共に居ることを望んでおられます。イエス様の生きた水をいただきましょう。
📢音声 途中で終っていますので、ご了承願います。

初めから終わりまで

イザヤ書46章1~4節

澤田直子師

『同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで 白髪になるまで、背負っていこう。
 わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。』  イザヤ書46章4節

 イザヤは、バビロン捕囚となったイスラエルの民に向かって、今バビロンが拝む偶像は、やがてバビロンの重荷となる、と預言します。イザヤ書は長く複雑な書物ですが、そのテーマは「神が神である」ということです。ここでは、偶像と真の神が、運ばれる神と運ぶ神、というように対比して語られています。
 旧約聖書には「残りの者」という考え方が出てきます。これは、望みがついえたように見えても、誰も神に従う者がいないように見えても、神様はご自分の僕を残しておかれる、ということです。
 神様は、そのありようとして、真実しか言えないし、真理しか行えません。そこには嘘も偽りもありません。しかし、わたしたち人間は人間の秤で神様を知ろうとしますので、神様を信じぬく、頼りぬく、ということが時に難しいのです。旧約聖書に出て来る人々も、皆、失敗しています。
 ここでは、ヘブライ語の「アニー」という言葉が5回も繰り返されます。日本語では「わたしが」と訳されていますが、もう少し強い「わたしこそが」「わたしだけが」というくらいの意味になります。なぜ、そんなにも人間に対して責任を負われるかといえば、それは『わたしはあなたたちを造った』からです。神様は天地創造の最後に『見よ、それは極めて良かった』と満足されてからずっと、人間に、恐れによってでも利益のためでもなく、神の愛に応えるために従う者になってほしいと願っておられるのです。
 誰でも、一年一年と年を重ねます。年齢によっては誕生日が嬉しくないと感じる方がおられるかもしれません。しかしそれは、神様に背負われる年月がまた一年増えた、そしてこれからも神様に背負っていただく喜びと平安を更新するということです。創造の主が、始めから終わりまで担ってくださいます。喜びを新たにいたしましょう。
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どこに行かれるか

ヨハネによる福音書7章32~36節

澤田 武師

主題聖句 「あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。
        わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」  ヨハネによる福音書7章34節

 群衆の「ささやき」からは、イエス様をメシアとして求める声も多く聞こえてきます。祭司長、ファリサイ派の人々はイエス様の人気を妬みつつも聞いています。やがてその声は、自分たちの権威が脅かされるとの不安を生みました。そして、不安は群衆を恐れる心にと変わりました。この事態の唯一の解決策として、イエス様を捕らえる行動へと彼らを駆り立てます。
 「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る」。イエス様は、地上での歩みには限りがあり、救いを受け入れるのにも限界があると言われています。十字架の時が迫っていると言われます。しかし、イエス様のお言葉の意味を、誰も理解できませんでした。
 後にイエス様の告別説教を聴いていた弟子たちでさえ、「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない」16:18とつぶやきます。十字架の死と復活を経験しなければ、イエス様がお話されていた言葉の意味をはっきりと知ることはできなかったのです。
 「あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」ファリサイ派や祭司長たちの聖書の理解や律法の解釈からでは、イエス様をメシアであると知ることはできません。それは、彼らの目の前にイエス様がおられても、彼らは決して真のメシアとしてのイエス様に出会えないということです。
 十字架の死と復活を信じるということは、神様は永遠の存在であると信じることです。神様はイエス様を死に打ち勝たせ、復活させられ、私たちに死をも乗り越えて行く永遠の命があることを示されました。ユダヤ人が「ギリシア人に教えるとでもいうのか」と嘲笑した言葉ですら、神様の御手の中では真理に変えられます。イエス様のお言葉は、この数年後には、ユダヤの地に限らず、異邦人に伝えられ、世界に広められました。この事実を歴史は証しています。イエス様を見失うことは、神様を見失うことです。イエス様がどこに行かれるか、決して見失わないよう、目と心を開いて従って行きましょう。
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どこから来られるか

ヨハネによる福音書7章25~31節

澤田 武師

主題聖句 「わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、
        その方がわたしをお遣わしになったのである。」  ヨハネによる福音書7章29節

 ヨハネによる福音書ではイエス様が「大声で言われた」という記述が28節以外にも2か所記されています。「祭りの終りの日(7:37)」、「ラザロを生き返らせる時(11:43)」です。これらに共通しているものは、神様を信じない者、疑いを持っている者、また、現実にある死に打ちのめされた者たちの心の叫びに答えられて、イエス様自らが先にお語りくださったお言葉であるということです。
 「大声」とは、元々のギリシャ語では「霊感に溢れて叫ぶ」という意味があります。ここで「大声で言われた」のは、イエス様が「メシアとは誰のことか」、大切な事実を「叫ばれた」お言葉であることが示されます。
 「どこの誰なのか。」自分自身を証明する時に必要となることです。教会でも初めて来られた方には、受付でお名前、連絡先を書いてくださいとお願いします。それは、受け入れる側からすれば、初めて来られた「あなた」をかけがえのない一人として歓迎します、という気持ちのあらわれです。
 エルサレムの人々はイエス様を「知っている」と言います。しかし、それは地上でのイエス様のお姿です。イエス様は、ご自分が天の父なる神様の独り子であることを、そして父なる神様が遣わしてくださったことを、あなた方は「知らない」と人々に向かって言われます。
 私たちの信仰にも同じことが言えます。信仰は決してこの地上だけで終わるものではありません。聖書は、私たちの国籍は天にあると記しています。私たちには地上の出身地だけでなく、もっと大きな「故郷」があります。それは天の国に帰る希望をもつ信仰、本来私たちが帰るべき所を知っている信仰です。
 「オープンチャーチ」アンケートに、「あなたは神がいると思いますか。いないと…。その理由を教えてください。」との問いがありました。この回答として「イエス様はどなたなのか」そして「霊感に溢れて叫ぶ」信仰に生かされている者の証しの言葉が多数記されていました。「時々分からなくなる」とお一人の方が書かれていました。正直な言葉です。聖霊に導かれて、ご自分の弱さを見つめた言葉です。イエス様は、弱い者と共に歩んでくださるために私たちの間に来られたお方です。
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