その教えはどこから

ヨハネによる福音書7章10~24節

澤田直子師

主題聖句 『この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、
        わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。』  ヨハネによる福音書7章17節

 イエス様は行かないと言っておられた仮庵祭の半ばに姿を現します。
15節に出てくる律法学者たちは、人が集まる場所に集まっては議論をして、知識と学閥をひけらかしました。イエス様に対しての「学問をしたわけでもないのに・・」という驚きは、同時に蔑みの言葉でもあります。
 イエス様は、御自分が教えておられることは、御自分の知識ではなく、父なる神から与えられたもので、父の御心を行おうとする人にはそれがわかる、と言われます。キリスト者が主の御心に沿って何かを行おうとする時、まず祈るでしょう。イザヤ書11:2『知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊』が送られ、わたしたちは自分の力ではできないことでも、主の導きによって歩む力が与えられます。
 「自分勝手に話す者は自分の栄光を求める」わたしたちは、つい、自分の経験から、知識から、人に教えようとします。しかし近年の世の中の変化するスピードは加速しています。長い歴史がある、ずっとそうしてきた、との理由で変化を拒んでは、誰にでも開かれる教会にはなり得ません。
 神様のご計画は、わたしが、あなたが、救われて終わりではありません。救われた者は、次に救われる者のために、祈り献げることが求められます。その方法論が問われているのです。あなたが人に教えようとするその教えは、どこから来たものか。神からか、人からか。
 律法学者たちがイエス様を殺そうとしたのは、もともとは安息日に病の人を癒した奇跡からでした。律法学者の頭の中は、人に自分の言う事をきかせることで一杯でした。イエス様の頭の中には、神様がこの病む人をどんなに愛し憐れんでおられるか、ということしかありませんでした。
第一コリント10:31『だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。』
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神の時、人の時

ヨハネによる福音書7章1~9節

澤田直子師

主題聖句 「そこで、イエスは言われた。『わたしの時はまだ来ていない。
        しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。』」  ヨハネによる福音書7章6節

 仮庵祭はユダヤの三大祭の一つです。出エジプトで、荒れ野を40年さまよったことを記念して仮小屋を作るためこの名で呼ばれますが、その内容は、ぶどう酒・オリーブなどの収穫感謝のお祭りで、大変豊かで賑やかなお祭りでした。
 イエス様の肉の兄弟は、この祭りに上って行って自分の姿を示すようイエス様に勧めます。それに対してイエス様は「わたしの時はまだ来ていない。」と答えられます。イエス様にとっての「時」は十字架と復活でした。憐みのゆえに多くの病人を癒し、わずかな食物で大勢を養い、迷子の羊のような群衆に根気よく教えながらも、イエス様は、その一点を見据えて歩んでおられました。
 世に属する者たちは、何の心配もなくエルサレムに上り、祭りを楽しむことができます。しかしイエス様の世に属さない目をもって祭りを見たら、信仰の伴わない捧げもの、私腹を肥やす祭司、偉ぶる律法学者と、でたらめな、神に背を向けた浮かれ騒ぎであることが明らかです。そして、イエス様がなすべき仕事は、その世に属する者たちを救うということなのです。
 しかし聖書を読む者は知っています。イエス様の兄弟たちは、十字架と復活の後で、真にイエス様を信じ、伝える者に変えられています。そのおかげでエルサレムには多くの指導者が集い、伝道者が送り出されました。それはイエス様が御自分の時を正しく知り、待ち、用いられたからです。
 わたしたちにも、それぞれ「時」があります。しかしわたしたちは自分の「時」を正しく知ることができないし、待つことも苦手です。早く、今すぐ、お手軽に、という方向に流れがちですし、「最善がなされますように」と祈りつつ「どうせなら今すぐに」と願ったりします。委ねることの難しさを思います。神の時を待ち望むなら、神様に全てをお任せしましょう。
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永遠の命の言葉

ヨハネによる福音書6章60~71節

澤田 武師

主題聖句 「シモン・ペトロはが答えた。『主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。
        あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。」   ヨハネによる福音書6章68節

 カファルナウムの会堂で語られたイエス様のお言葉は、ユダヤ人たちには到底受け入れらない内容でした。お言葉は彼らの間で激しい議論となりました。ユダヤ人は、イエス様のお言葉を通して神様の御心を聞く、ということを拒否したのです。彼らの心がイエス様から離れてしまったことをも意味しています。
 その時、一緒に聞いていた弟子たちの多くの者も、「実にひどい話だ。こんな話を聞いていられようか」と思いました。彼らの心の中ではお言葉から「つぶやき」が生まれたことも記されています。
 「ひどい」と訳されているギリシャ語は「スクレ―ロス」という言葉で、本来は「受け入れがたい」「がまんするのも困難だ」という意味を持っています。話されたイエス様の存在すらも否定する思いとなり、彼らの「つぶやき」は、「つまずき」を生み出しました。その結果、イエス様の元を多くの弟子たちが「離れ去った」と記されています。
 その場に残った12人の弟子たちに「あなたがたも離れて行きたいのか」と、イエス様は迫ります。弟子たち一人一人の思いをはっきりさせるための迫りです。
 「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。」ペトロの応答は弟子たちの信仰告白です。今までも見聞きし、信じ従って来た。その全てが、目の前に居られるイエス様のお姿そのものである。この方以外の誰に従っていくのか、イエス様こそ、これからもご一緒に歩んで行くお方である、との告白です。
 残った弟子たちは、神様の御心としてイエス様のお言葉を聞くことができました。彼らはお言葉に捕らえられています。ここに、お言葉に生かされている者たちの姿があります。コリントの信徒への手紙一1:18「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」。イエス様のお言葉を、滅んでゆく者の耳で「ひどい話」と聞くのか、救われた者の耳で「永遠の命の言葉」として聞くのかと、私たちは絶えず問われ続けています。それは、信仰を続けるのか、ここで終わるのかとの、私たちへの迫りでもあります。
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わたしもその人の内にいる

ヨハネによる福音書6章52~59節

澤田 武師

主題聖句 「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」
                                                           ヨハネによる福音書6章56節

 私たちが「食べる」、「飲む」とは、神様が創造され備えてくださった「命」を食べることです。この「命」以外には私たちの食べ物はないのです。また、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」とあるように、その命をいただくことは、空腹を満たすだけではなく、私たちが「神様のみ言葉によって生かされる」ことなのです。
 私たちは「命」を維持するのに必要な栄養を体内で作り出すことが出来ません。必要な栄養は外から、つまり「食べる」「飲む」ことでしか得られません。
 「命のパン」は、唯一神様が創造されたものではありません。神様がこの世界を創造される前からイエス様はおられたからです。そのイエス様が自らの命を奉げてくださるために、「命のパン」として私たちの前に現われてくださいました。
 コリントの信徒への手紙一では「聖餐」について、イエス様は過越しの食事「最後の晩餐」の時に、弟子たちに示された「パンは裂かれたわたしの体である」、そして「ぶどう酒」は、流されるわたしの血潮であると書かれています。「記念」であり「新しい契約である」と記しています。
 56節「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」。イエス様との人格的な交わりを持つこと、イエス様を受け入れること、それこそ「食べる」ように「飲む」ように、イエス様が私の中へ入って留まってくださる。イエス様との確かな関係を作ることが「聖餐」であると記しています。イエス様を「食べる」とは、イエス様と「永遠の関係を持つ」ことです。「命のパン」を食べる、その本質は「永遠の命を食べる」。それが聖餐であるとヨハネは記します。
 十字架で割かれたお体と、流された血潮は、信じる者に新しい命として与えられます。「聖餐」はイエス様と関係、すなわちイエス様と一体になること。ヨハネはそのためにイエス様が遣わされて来られたことを強調しています。イエス様はどこにおられるのか。あなたの心の中にイエス様はおられます。あなたの命を共に生きておられます。それを五感で確認するためにキリスト者は聖餐を受けます。目の前のパンに、ブドウ液に、イエス様のお姿を見るのです。
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