何に命を求めるか

ヨハネによる福音書5章31~47節

澤田直子師

イエス・キリストを証するものが4つあります。天の父は、イエス様の洗礼の際「これはわたしの愛する子」と、聖霊を鳩のように降されました。バプテスマのヨハネはイエス様を指して「見よ、神の子羊だ」と宣言しました。また、イエス様は数々の奇跡を行い、それらは自分の思いではなく神のご意志の現れである、と言われました。そして「聖書はわたしについて証しをするものだ」と言われます。
 「人からの誉れは受けない」誉れはギリシャ語でドクサです。栄誉の他に、輝きという意味も持ちます。ドクサは本来神のみを形容する言葉で、人間に使う際には、神の御業がその人に現わされた、というような時に使われます。また、神に聖別されることにも使われます。
 人からの誉れ、これは褒め言葉、高い評価や地位でしょう。神からの誉れとは聖別の意味を持ちますから、いらないものはそぎ落とされ、種が芽生えるためには耕されます。そこには痛みが伴います。神様に聖別されるというのは、わたしたちの中に霊的な戦いを引き起こすのです。イエス様でさえ、ゲツセマネの園で「御心の通りになりますように」と祈るまでには、血のように汗が滴り落ちる祈りをされました。そしてその時弟子たちは皆眠っていました。霊的な戦いは孤独になされるものです。
 人間誰しも心の奥底では、神様の御前に立つ時があることを知っているのではないでしょうか。だから、人間は必ず死ぬと承知していても、その時を恐れるのではないでしょうか。その恐れを克服しようと、良い人間であろうとしたり、人に尊敬される高い地位を目指したり、財産を貯えようとする。でも実は誰しも、目に見えるものが自分を永遠に生かすことはない、と知っているのではないでしょうか。
 イエス・キリストの十字架の贖いを信じるなら、私たちには神の赦しが与えられます。その赦しこそが「神からの誉れ」です。それは信じる者の顔を輝かせ、その生活を聖別します。命を得るために、イエス様のみもとに行きましょう。
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風の中で始まる

使徒言行録2章1~13節

澤田直子師

ペンテコステとはギリシャ語で「50日目」という意味です。ユダヤ教では小麦の収穫の初穂を祝う「七週祭」また、モーセがシナイ山で十戒を授与された日とも言われます。盛大で賑やかなお祭りで、故郷を離れて異郷の地で暮らすユダヤ人がエルサレム神殿に大勢集まりました。
 この年の過越しの祭りから五旬祭まで、使徒たちはどんな気持ちで過ごしたでしょうか。イエス様が「ホザナ」の歓声に包まれてエルサレムに入城し、最後の晩餐、十字架、復活、昇天とまるでジェットコースターのような浮き沈みを味わったのではないかと思います。その中で、イエス様が約束された聖霊を待って、エルサレムに留まっていたのです。
 激しい風のような音、炎のような舌、想像しがたい光景の後で、使徒たちがそれぞれ違う言葉で福音を語る、という奇跡が起こります。同じような多言奇跡は、創世記のバベルの塔の時にも起こりました。この時には人々は一致を失って散らされましたが、ペンテコステの時には、まっすぐに心に届く言葉を聞いた人々が、その日のうちに3000人もイエス・キリストを信じたのです。起こった現象は同じでも結果は正反対でした。
 聖書の特徴の一つに、多様性と統一性が同時に存在する、という事があります。著者も時代も違う書物の集合体でありながら、その言わんとするところは、イエス・キリストの十字架と復活、わたしたちの罪に対する贖いと赦しです。様々な角度から同じことを伝えるのは、神様がわたしたち人間を十把一絡げにせず、一人一人に相対してくださるしるしです。
  「霊」をヘブライ語で「ルーアッハ」と言いますが、他に、「息」また「風」も同じ言葉で表します。創世記2:7『・・・その鼻に命の息を吹き入れられた』また、ヨハネ3:8『風は思いのままに吹く。・・・霊から生まれた者も皆その通りである。』天地創造の6日目から、わたしたちには神様の命の息が与えられ、その時からずっと、聖霊の風の中に世を歩んでいるのです。心の内に神様の息を感じ、日々の歩みの中で聖霊の風を受けて、喜びと感謝を持つことができますよう祈りましょう。
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死から命へ移って

ヨハネによる福音書5章19~30節

澤田 武師

主題聖句 「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」  24節
 「わたしの父は今もなお働いておられる」、イエス様と父なる神様が等しい者であることをユダヤ人は受け入れません。ヨハネはイエス様の存在を神学的にはっきりと示します。イエス様のお働きは、この世界を創造され、そして今もこの世界のために働いておられる神様と一体です。地に遣わされた「子」としてのイエス様に、父なる神様は全てを示されます。イエス様の奇跡は、父なる神様の再創造の業を、地上で現わしているのです。奇跡は神様の御心が示される出来事であり、それを行うイエス様が、神様と一体であられるという証です。
 24節「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」と言われます。イエス様は、罪に苦しむ者の救いのために来られました。それは永遠の命を信じることです。そのためならイエス様はご自身が十字架に架かられても、一人でも多くの者を救いたいと、神様のみ旨に従い続けられました。お言葉が人を生かし、人を裁きます。それは私たちを、イエス様と共に歩む者に変えていきます。聞く耳の有る者は聞きなさい。この時もイエス様はユダヤ人の聞く耳を求めておられます。
 27節「裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである」と言われます。「善を行った者、悪を行った者」、イエス様が再び来られる再臨の時、すべての者はイエス様によって「裁かれ」ます。イエス様は、人としてこの地上の苦難、悲しみを経験してくださった上で、罪に囚われ、苦しみもだえる民に救いの道を示され、今も全ての者が救われる時を待ち望んでおられます。ホーリネス信仰は「四重の福音」の「再臨」を強く意識しています。最終的な救いが完成する時を、私たちは待ち望みます。ヨハネによる福音書が、神学的な表現を用いるのは、イエス様のお姿を、しっかりと神様として伝えるためです。これは大変重要なことです。イエス様のお言葉、奇跡は何を表しているのか、何を意味しているのかをしっかりと知ることは、イエス様を信じる信仰にブレが起こらないことにつながります。どうぞ自問自答してください。私にとってイエス様はどんなお方なのか。それは、私の信仰の神学を確立することにつながります。
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わたしも働くのだ

ヨハネによる福音書5章14~18節

澤田 武師

主題聖句 「イエスはお答えになった。『わたしの父は今もなお働いておられる。
        だから、わたしも働くのだ』」  17節

 17節「わたしの父は今もなお働いておられる。」この短いお言葉に、壮大な神様のお働きを見ることができます。「安息日を守る」掟は、創造のみ業を終えられた神様が、第7日目にすべての被造物をご覧になり「極めて良かった」と満足されて休まれたことに根拠を置いています。
 神様の創造のみ業は、この時だけではありません。神様は創造されたこの世界を全て支配されています。日は昇り、雨は降り、作物は時に応じて実をつける。最初から変わらない、繰り返しの日々は、神様が支配され続けてこその世界です。このお働きは安息日であろうと、平日であろうと休みなく、今この時も行われています。
 また、神様はユダヤ人が奴隷として暮らしていたエジプトへモーセを遣わして、イスラエルの民を導き救い出してくださいました。そのみ腕をもって、み力をもって奴隷から解放してくださいました。その偉大なみ業を思い起こすために「安息日を守る」よう命じられたのです。いつも変わらず、直接イスラエルの民を導き、救いの御手を差し伸べてくださる神様。神様のお働きは休むことはありません。
 「だから、わたしも働くのだ」と、イエス様は父なる神様と同じところに立つ者であることを宣言されます。イエス様がこの世を愛してくださって、私たちのためにこれからも働いてくださる思いがここに示されています。
 このお言葉に励まされ、勇気を得て困難に立ち向かった信仰者の方々は、たくさんおられます。私たちにはこの世での歩みがあります。週日の中で信仰者であり続けることは、この世との闘いでもあります。その時も、主イエス様は私と共におられ、私のために休まずに働いてくださいます。
 私たちは、父なる神様と呼びかけることを許され、イエス様のお名前によって祈ることを許された者です。今も働かれている父なる神様に、そして、私たちのために働くのだと言ってくださるイエス様に、直接祈ることができる者なのです。
 この世を良きものに創造された神様。そこに罪が入り込み、罪に苦しむ者を救おうと、イエス様が来られました。神様の御心は、私たち一人一人が神様に立ち帰ることです。イエス様も、十字架に架かってでも引き戻そうとされます。ここにイエス様が働いてくださる強い意志があります。「だから、私も従って行きます」。
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