わたしたちは信じる

ヨハネによる福音書4章39~42節
澤田直子師

 ヨハネ4章の大部分を占める「サマリアの女」の話は、単に出来事を記したのではなく、神様のご計画として神学的な意味を表そうとしています。
 井戸の傍で女を待つイエス様の姿は「キリスト論」です。救い主とはどのようなお方か。また、イエス様と女の会話は「救済論」、救われるということは、内に枯れることのない泉が開かれるようなものであるという事です。
 女が礼拝について問う「礼拝論」イエス様は、まことの礼拝は「霊と真理」によって奉げられると教えます。霊とは神からの聖霊、真理はイエス様そのものです。最後は「宣教論」神の働きが現れる時には、種蒔きと刈り入れが同時に行なわれるような、わたしたちの常識とかけはなれたことが起こり得ます。
 使徒言行録8章にもう一度サマリアの町が出て来ます。ここではイエス様の弟子フィリポが福音を告げ知らせますが、この時にはシモンという魔術師がサマリアの町で人気を得て「神の力だ」などと言われています。どうも、サマリアの人々は信じるのも早かったけれども長続きしなかったようです。ペトロとヨハネが加わって、「聖霊を受けるようにとその人々のために祈った」信じたらそれで終わりではなく、聖霊のお働きを祈って、信仰がより深くより新しくされるよう努めなければなりません。
 サマリアの出来事は、わたしたちが信仰を持つ道筋を教えると同時に、それで、その後はどうしますか?ということを問うているのではないでしょうか。信仰の告白、洗礼を受けることは、ゴールではなくスタートです。イエス様の十字架と復活を信じ、罪赦されて新しい命をいただいてからが、信仰者の勝負どころなのです。
 ローマ 12:2「心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」また、 14:8「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。」信仰を告白した後の歩みが全て、主に栄光をお返しするものとなりますように。
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永遠の命に至る

ヨハネによる福音書4章27~38節

澤田直子師

 弟子たちはサマリアの町から食べものを買って帰ります。入れ替わりにサマリアの女は町の人々を呼びに行きます。弟子たちから食事を勧められたイエス様は 『わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある』 と言われます。まだ使徒として遣わされていない弟子たちには、この言葉の真意はわかりません。キリスト教には、頭で学んでもわからない、実際に自分の身に起こったこととして受け入れなければ理解できないことが多くあります。それを、わかりませんから信じられません、というのではなく、わかりませんが信じます、というところに信仰の力があります。
 35節 『刈り入れまでまだ4か月ある』 とはユダヤの諺で、何事もすぐに結果は出ない、という意味で使われます。ここでは、遠くの方に、サマリアの町から女に連れられてやってくる人々の姿が見えたのかもしれません。霊的な成長は、時を待たずに起こり得ることを示しています。ついさっき、ひとりの女性が救われました。もうすぐ、何人ものサマリアの町の人が救われ、2~3日後にはほとんどの人が救われるでしょう。
 イエス様は全き人でありながら全き神ですから、天に用意されている刈り入れの報酬が見えているのですが、地に住む人間にはそうはいきません。ヨハネ14:2~3にある、イエス様が天に用意してくださる父の家が、刈り入れ人の報酬です。この報酬のために、旧約聖書の預言者たちも命がけの働きを捧げました。地上の生活で働きが報われた人は多くありませんでしたが、皆、天上の報酬を信じて神に従い通し、その働きは今も手から手へと途切れることなく受け継がれているのです。
 サマリアの女の話を通して、目に見える奇跡はおこりませんでした。イエス様が疲れて座っておられた。サマリアの女と話した。女が町の人に話した。イエス様がそこにおられる、イエス様にお会いするというのは、これほどの力を生むのです。サマリアの女は、たった一度イエス様にお会いして、立派に刈り入れ人として用いられました。わたしたちにも、報酬は既に用意されています。召しに答える弟子となりましょう。
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渇きを潤す

ヨハネによる福音書4章16~26節

澤田 武師

主題聖句 「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」 24節
 ヨハネは10節~26節に、イエス様とサマリアの女性との間に交わされた言葉だけを記しています。それは読者に、話された言葉にのみに集中して、私たちも一緒に立ち会っているような緊張感を与えることを意図して書かれたと思います。イエス様が女性に問いかけた言葉を、私への問いかけとして聞く、それはこの記事を読むたびにサマリアの女性が救われた事実を、私の救いとして追体験することです。イエス様が私に何を求めておられるのかを、繰り返し知ることを、ヨハネは私たちに求めていると思います。
 「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」イエス様の問いは、サマリアの女性に「わたしには夫はいません」との現実を告白させます。「あなたは、ありのままを言っただけだ。」イエス様の応答は女性の過去、現在を否定せず、裁きの言葉でもありません。女性が今連れ添っているのは夫ではない事実を全てご存じであって、そのために渇きを覚える女性にかけられたイエス様の優しさを感じられます。
 女性は赦しを求めてイエス様に迫ります。「婦人よ、わたしを信じなさい」。このお言葉の中に女性が求めていた答えは全てあります。イエス様は神様を礼拝する場所を整えてくだる、その時が来ることを示してくださいました。
 「霊と真理をもって礼拝する」とイエス様は繰り返されます。とても大切な事です。「霊」とは、言い換えれば「こころを込めて」という意味です。形式や儀式、外見だけでなく、そこに神様に真剣に祈る心を、献げる礼拝を現しています。「真理」とは、イエス様の十字架は神様と直接に出会う道を、イエス様を信じる者すべての者に開いてくださいました。そのイエス様を通して献げられる礼拝です。ここに「その水をください」との女性の最初の祈りの答え、赦され者への救いが与えられる約束があることが示されています。
 イエス様は今はっきりとサマリアの女性に話されました。サマリアの女性の渇きは潤されました。彼女は命の水を与えられている喜びに気付かされました。目の前にいるイエス様に気付かされました。
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その水をください

ヨハネによる福音書4章11~15節

澤田 武師

主題聖句 「女は言った。『主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。』」 15節
 イエス様は御言葉を通してサマリアの女性に「生きた水」を与えられました。「生きた水」は女性の心を変えて行きます。女性は、この見知らぬこの旅人の言葉によって、自分でもよくわからない、何か特別な思いが与えられたことに気付きました。しかし女性はすぐには現実から離れることができません。昔からあったヤコブの井戸は深く、ここに住む者たちを生かし続けて来た、それ以外の水を「どこから手に入れるのですか」と、イエス様に問います。
 13節イエス様の御言葉「この水を飲む」とは「律法」を現していると言えます。律法を守る、その行いによって救いが与えられる。しかし、時間が立てばまた喉が渇くように、律法を守らなければ、救いから外れてしまう。それは、「この水を飲んでも」心の渇きからは完全には解放されないということです。
 「生きた水」とは「福音」です。イエス様を信じて「わたしが与える水」を飲むことにより、自分の内側に豊かに湧き出る泉のごとくに、人に永遠の命を与え、「再び生かされる」。完全に潤されるとういことです。
 女性は答えます。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」。彼女が全てを理解し受け入れたのではありません。しかしここには本当に求めているものが示された者の言葉、信仰の告白があります。女性はもうこれ以上、渇きを覚える生活を繰り返したくない、やめてしまいたいと強く願うようになっています。その力となったのが、泉となって心の渇きを潤す「生きた水」です。「その水をください」 サマリアの女性が、初めて祈り求めた言葉です。それはイエス様を隣人として受け入れ、また、救い主と信じた者の祈りの言葉となりました。
 皆さんはイエス様に、最初に何を祈り求めたかを覚えておられますか。その時が、皆さんとイエス様が隣人となった時、救い主であると知った時です。サマリア伝道は、この女性の、生き返る喜び、救いの喜びを求めた祈りが、第一歩となったことを記しています。真っ直ぐにイエス様に切に祈り求める心が、祈り手だけでなく、世をも変えていく力を持つということです。
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