平和を実現する人々

マタイによる福音書5章9節

澤田直子師

『平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。』
2017年を振り返りますと、平和について様々に考えさせられた一年であったと思います。ヘブライ語の「シャローム」は、本来、どの方向にも全く不足がない状況を意味します。また、苦しみとか不安が「ない」というような、否定語をつけない言葉だそうです。すべての幸せを見出し味わい楽しむ、それがシャロームです。それはあまりにも現実味のない言葉のようにも感じられます。
 キリスト教は関係性を重視しますので、私一人がシャロームなら良いということはなく、ではそのシャロームを誰とどうやって分かち合いますか、となります。それが「平和を実現する」という言葉に表されます。聖書において平和は与えられるものではなく、作り出すものです。私たちに与えられているのは福音です。主イエス様の十字架の贖いに対して、私たちは何一つ支払っていません。それは神様の一方的な愛と憐みによって与えられました。私たちはただ、それを受け入れるか受け入れないかを選ぶだけです。何であれ、物事を選べばそこには責任がついてきます。福音に救われることを選ぶ者には、イエス様に倣うという責任がついてきます。
 しかしこれは、責任というよりは特権に近いものです。なぜならば、私たちは自分の努力では到底、イエス様に似た者になることはできません。それをご承知の神様が、いつも共にいてくださる、私たちをご自分の道具として、用いてくださる。使うお方が全知全能ですから、道具の良し悪しに関係なく、完璧に手入れをし、完璧に使ってくださいます。
 「平和を実現する」とは、徹底的に神の道具となることです。イエス様ご自身も、人として生き、その弱さの中で平和を実現するために苦しまれました。「実現する」とは、ある物を見て、別の事を連想する時に使う言葉です。窓の外の木々の揺れを見て、風があることを知る、というような。私たちに、この御言葉が求めることは、その存在が平和を思わせるような人間になりなさい、ということでしょう。教会堂を出てからが正念場です。平和を実現する姿で世に遣わされて行きましょう。
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主が輝き出で

ルカによる福音書2章1~7節

澤田 武師

主題聖句 『ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。』
2章6~7節

 皇帝の勅令は「権力者にとっての、力の誇示と富を蓄えるための命令」であり、聞く者には「拒むことが出来ない」現実となりました。マリアは御心によって、お腹に子どもが与えられた。しかし、そんな事は誰も信じられません。若い夫婦にとって、ナザレは安住の地、平安の村ではありませんでした。マリアを残して行けば、世間の目、人の声、態度からマリアを守ることができない。また、一緒に行くならばこれも、身重のマリアには大変な負担となるでしょう。ヨセフはマリアを連れてベツレヘムに行く、苦渋の決断をします。
 旧約聖書のミカ書にクリスマスが預言されています。「ベツレヘムにて救い主が誕生する。」その預言は成就しました。「住民登録」のための二人の旅は、ヨセフの苦渋の決断が、すでに神様の選びの計画に組み入れられていた証詞となりました。
 しかし事態はさらに悪化します。ベツレヘムでは彼らの泊まる場所は提供されませんでした。それは人々の善意から漏れたという事になります。しいて言えば、拒否されたことに他なりません。ここにも人の世の暗闇が見えます。彼らは人の世の暗闇に再び包まれました。7節「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」
 遠い昔から今日に至るまで、世界中で祝われているクリスマスは、全て、この夜に帰ります。「布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。」 ここにイエス様はおられます。教会が伝えるクリスマスの喜びは、人の住まない所、暗やみの中、誰からも顧みられない所で始まりました。イエス様はお生まれになりました。それは神様が人となられたということです。十字架の死によって、すべての者の罪を贖ってくださる救い主イエス様のお誕生の夜は、私たちに生きる場所が与えられた時です。教会は変わることなくこの「良い知らせ」を伝え続けます。そこに、イエス様が居られることを伝えます。世界中の全ての人が、ここに帰る場所を見つけることができます。
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主の熱意が成し遂げる

イザヤ書9章1~6節

澤田直子師

 この有名なイザヤの預言は、紀元前730年ごろ、北イスラエル王国がアッシリアにほぼ占領された時代になされたものと言われます。「闇の中を歩む民」はアッシリアに捕囚として連れ去られた人々を、「死の陰の地に住む者」とは荒れ果てたエルサレムに残された者を指すと考えられています。
 しかしそこに、神様は深い喜びと大きな楽しみをお与えになる、と記されます。これら預言の言葉に過去形が使われるのは、必ず成就することを表します。しかしそれは「ミディアンの日」士師記6~8章のギデオンの300人の勝利のような、戦いに勝つことではありません。それは小さな、無力なものの姿で、わたしたちに与えられます。
 5節にはイエス・キリストの4つの姿が記されます。『驚くべき指導者』 神の全知全能の「全知」の部分です。驚くべき知恵を、救い主は私たちを導くためにのみ使われます。『力ある神』 「全能」の部分です。この力が勝利するのは、外から来る敵だけではありません。最も恐ろしいのは心の内に潜む敵ですが、しかしこのお方は決して負けることはありません。『永遠の父』 その支配には、限界も終わりもない。そして父のように、私たちを愛し、責任を負ってくださる方です。『平和の君』 神の平和シャロームを与えてくださる。全てを主に委ね信頼し、外にどのような嵐があっても心は穏やかに安らいでいられます。
 最初にあるのが「驚くべき指導者」であるということは、イエス様は私たちに寄り添うために来られたことを証ししています。イザヤはこうして建てられるであろう王国に権威は増し、平和は絶えることがない、と予言します。その根拠は、『万軍の主の熱意がこれを成し遂げる』 私たちが頑張って到達するのではない、神様が成し遂げる、それも仕方なく、ではなく熱意と強い意志で成し遂げられる。
 万軍の主が成し遂げようとされたのは、裁きでも力による勝利でもなく、愛すること、赦すことでした。仕えられる権威ではなく、仕える謙虚さを持つことでした。イエス様の、十字架に至る歩みがそれを証明しています。主に倣う歩みを一歩でも二歩でもしたいと願います。
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夜明けはまだか

ルカによる福音書1章67~80節

澤田 武師

主題聖句 『これは我らの神の憐れみの心による。』      1章78a節
 「神様に仕える」ことと、「神様に出会う」ことは異なります。祭司ザカリアには、神様は遠い、近づきがたい存在でした。しかし、神様はザカリアに直接語りかけてくださいました。
 神様に祈り願っていた事柄が適う、時にそれは、人間の思いでは「不可能」であったものが「可能」となった、ということです。神様が現実に介入され、すべてを成し遂げてくださった事実の前に、人間はただ、ひれ伏すだけの存在であることを改めて知ります。そこには「畏れ」が生じます。
 ザカリアは息子ヨハネ誕生後に、声を出すことが出来るようになりました。彼は聖霊に満たされて神様に自分の言葉をもって栄光をお返しします。その言葉が「ザカリアの預言」として残されています。神様が彼の口を通して語られたクリスマスの始まり、新しい時代の訪れ、夜明けが近いとの宣言です。
 御言葉を受け入れ、神様に用いられた者の言葉は、個人の思いを超えて、世の喜びへと思いを巡らしてゆきます。
 「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を」 で始まる預言の言葉は、息子ヨハネの誕生が、救い主が来られるための備えであることを証します。聖書の預言が成就した出来事であることが公に語られ、「あけぼのの光が我らを訪れ」と呼びかけられます。
 「これらは神の憐れみの心による。」と、すべてが「神様の赦しから始まることを示された」ということです。救い主は光として来られる。わたしたちも、暗闇に座している者たちにも、誰に対しても朝日は輝きだし、誰もが光に包まれる。それは全ての者に平和を与える光となります。この光こそイエス様が示された神様の愛です。
 神様の新しいご計画が始まる。その一部でも担うことを託された者。彼らの言葉には、神様から与えられた勇気を見ることが出来ます。今まで誰も経験したことのない出来事、誰も信じてくれない出来事。それが神様の御旨と信じた時、そこにはすべてを超える勇気が与えられます。
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わたしの心は

ルカによる福音書1章46~56節

澤田 武師

主題聖句 『わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。』 1章47節
 マリアは天使ガブリエルのみ言葉を受け入れました。それは常識では 「受け入れられない」 出来事を、神様の御旨と信じたことです。一人の女性の思いがクリスマスの御業を進めました。
 エリサベトとの出会いは、神様のみ言葉を信じた者同士の出会いです。エリサベトは、聖霊に満たされて、マリアの妊娠を、それが神様の業であり、主の母になる幸いな者であることを告げます。
 マリアは胎の子が神様の御旨であることを確信します。そして自らが「幸いな者」であると告白します。ルカは二人の女性が 「神様の言葉を信じた幸いな者」 であったことを記しています。
 イエス様は「心の清い人々は幸いである、その人たちは神を見る」と言われました。ここで「清い」と訳されている言葉は「カロサス」。この言葉は「最も厳粛な自己検討を要求する」といいう意味が含まれています。彼女らは「神様の御心が自分たちの上に成就した」、そこにこそ御言葉を受け入れた「幸いな者」としての存在があることを知りました。
 クリスマスは、全ての者には理解不可能な「受け入れられない」出来事として成就しました。神様の御旨の全てを理解することは、私たちには到底出来ません。
 マリアは神様の御旨として「不可能」な出来事を、「可能」な出来事として受け入れました。神様は全てを支配していてくださる。この小さな者にも目を注いで、用いてくださった。
 マリアの賛歌を、皆さんには「わたしの心は」と読んでいただきたい。受け入れない出来事に直面した時に、「わたしの魂は、主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」 と告白する信仰者であり続けたいと願います。「受け入れられない、理解出来ない」ことを、神様の御心として確信を持って「受け入れた」時が、「不可能を可能に変える」 クリスマスの訪れです。そこには幸いな者が集っています。
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