主の熱意が成し遂げる

イザヤ書9章1~6節

澤田直子師

 この有名なイザヤの預言は、紀元前730年ごろ、北イスラエル王国がアッシリアにほぼ占領された時代になされたものと言われます。「闇の中を歩む民」はアッシリアに捕囚として連れ去られた人々を、「死の陰の地に住む者」とは荒れ果てたエルサレムに残された者を指すと考えられています。
 しかしそこに、神様は深い喜びと大きな楽しみをお与えになる、と記されます。これら預言の言葉に過去形が使われるのは、必ず成就することを表します。しかしそれは「ミディアンの日」士師記6~8章のギデオンの300人の勝利のような、戦いに勝つことではありません。それは小さな、無力なものの姿で、わたしたちに与えられます。
 5節にはイエス・キリストの4つの姿が記されます。『驚くべき指導者』 神の全知全能の「全知」の部分です。驚くべき知恵を、救い主は私たちを導くためにのみ使われます。『力ある神』 「全能」の部分です。この力が勝利するのは、外から来る敵だけではありません。最も恐ろしいのは心の内に潜む敵ですが、しかしこのお方は決して負けることはありません。『永遠の父』 その支配には、限界も終わりもない。そして父のように、私たちを愛し、責任を負ってくださる方です。『平和の君』 神の平和シャロームを与えてくださる。全てを主に委ね信頼し、外にどのような嵐があっても心は穏やかに安らいでいられます。
 最初にあるのが「驚くべき指導者」であるということは、イエス様は私たちに寄り添うために来られたことを証ししています。イザヤはこうして建てられるであろう王国に権威は増し、平和は絶えることがない、と予言します。その根拠は、『万軍の主の熱意がこれを成し遂げる』 私たちが頑張って到達するのではない、神様が成し遂げる、それも仕方なく、ではなく熱意と強い意志で成し遂げられる。
 万軍の主が成し遂げようとされたのは、裁きでも力による勝利でもなく、愛すること、赦すことでした。仕えられる権威ではなく、仕える謙虚さを持つことでした。イエス様の、十字架に至る歩みがそれを証明しています。主に倣う歩みを一歩でも二歩でもしたいと願います。
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