見よ、神の小羊だ

ヨハネによる福音書1章29~34節

澤田直子師

 ヨハネによる福音書には、イエス様が洗礼を受ける場面が記されていません。バプテスマのヨハネは「わたしはそれを見た」と、こちらに向かって歩いてくるイエス様を見て、「見よ、神の小羊だ」 と言います。ユダヤ人にとって「神の小羊」から連想することはただ一つ、過ぎ越しの夜、屠られた子羊の血を、家の柱と鴨居に塗って信仰の証とした、あの小羊です。
 しかし、そこに 「世の罪を贖う」 とつくと、これはもう彼らの理解を超えてしまいます。ユダヤ人は神の選びの民であり、それ以外の民族は汚れていると考えていました。この言葉は、ユダヤ人にではなく、後世の、イエス様の十字架を信じる者たち、つまりわたしたちに向かって教える言葉ではないかと思います。
 このバプテスマのヨハネの言動に、今のわたしたちの教会のなすべき業が示されています。わたしたちは、十字架の贖いを信じて救われたことに感謝しています。けれども、日常の生活の中で、どれくらい信仰を表しているでしょうか。ヨハネがイエス様を指さして 「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」 と高らかに言ったように、十字架の贖いを高らかにさけんでいるでしょうか。
 わたしたちは人間にすぎません。できることには限りがあります。病に苦しむ人に、できることなら代わってあげたいと思っても代わることはできません。重い心を抱えている方のお話を聞くことはできても、イエス様のように「安心して行きなさい。あなたの罪は赦された。」と解放してあげることはできないのです。隣人どころか、自分自身のことさえも思うようにならないのがわたしたち人間の姿です。ローマ7:19 「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。」 キリスト者とは、善を行えない自分をよく知っている人たちです。
 わたしたちに委ねられたのは、十字架を指さして「神の小羊の血によって、わたしの罪は贖われ、わたしは救われました」という事です。

生涯、満ち足りて

詩編91編

澤田直子師

 詩編91編はタイトルがない「みなしご詩編」と呼ばれるものですが、ある研究者は自分なら「神はわがふるさと」というタイトルにしたいと言います。自分には帰るところがあるという感覚を「帰属意識」と言います。具体的な場所にも使う言葉ですが、仲間同士の心の絆に対してよく使われます。信仰者が帰属するのは、天国ではなくそこにおられる神様です。
 91編の背後には物語を感じます。長い間、忠実な信仰者として歩んできた人に、何か試練があった。今まで何度もそうしてきたように、彼は神殿に詣でて、心を注ぎ出して祈ったでしょう。その姿を見かけた誰かが声をかけてくれ、話を聞いて慰め励まし、一緒に祈ってくれたのではないか。祈りのうちに、神様のお応えが示されたのではないか。
 1~13節は、信仰者は神を隠れ場として平安を得、神はあらゆる手段をもって、信じ依り頼む者を守ることが証されています。ここまでは、人が人を力づける言葉ですが、14節からは、祈る者の姿を見ていた神様ご自身がかけてくださるお言葉ですから、ここからは、神様がわたしにこう話しかけてくださっている、と思って読んでいただきたいところです。
 「彼」となっていますが、もちろん男性限定ではありません。女性も神様の目に映っています。14節 「わたしの名を知る者だから」 聖書では「名を知る」ことは、その人の全体像を知ることを意味しています。また「名」は「足跡」とも訳せる言葉を使っています。神様の存在と自分の存在には深い関係性があり、共に歩んできたと信じていることを示します。15節は未来のことではなく、今までも 「彼と共にいて助け」 て来たことをこれからもずっと続けようというのです。
 その行きつくところは16節 「生涯、彼を満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せよう」 わたしに満ち足りるものは何か、これを間違えてはいけません。聖歌473番の歌詞をご味読ください。敬老感謝の対象となった兄姉が、神様と共に歩み満ち足りている姿を証明してくださっています。

後から来られる方

ヨハネによる福音書1章19~28節

澤田 武師

主題聖句 『その人はわたしの後から来られる方で、わたしにはその履物のひもを解く資格もない。』
        1章27節

 ヨハネによる福音書では、イエス様の公生涯を「洗礼者ヨハネ」の証しの言葉から始めています。
 「洗礼者ヨハネ」は自分の存在を 「荒れ野で叫ぶ声」 であると答えます。荒れ野は現実に彼が生活していた所でもあり、同時に「この世の荒れ野」をも意味しています。そこには命がありません。平安も希望もない所。多くの民が貧困や、ローマの支配にあえいで生きている場所、そこには救いはありません。
 しかし、その荒れ野にも救い主がお生まれになった。救いが訪れた。この喜びを彼は叫び伝えます。荒れ野は彼の声を消そうとしますが、「主の道をまっすぐにせよ。」 彼は、今その時が来た。準備を怠るなと叫び続けます。
 「わたしはメシアではない」と彼はとても強い言葉で、否定します。自分の存在が、イエス様を証しするための「声」であるにすぎないことをも受け入れています。それはイエス様が来られた時、その後は消え去る者であることを自覚しているということです。現代では音源を残すことが出来ます。説教や時代を変えた演説、美しい歌声などを録音して再現することが出来ますが、当時の「声」ヨハネは消え去ります。しかし、語られた言葉は聖書に記されて永遠に残ります。彼は、本当のメシア、救い主が誰であるかを知っていました。真実を知った者には、その真実から遠い、自分の存在が示されます。「洗礼者ヨハネ」は、自分とは誰なのかを知らされた人物でありました。
 「後から来られる方」 彼は、イエス様をそう表します。今はまだ誰にも知られていない方である。わたしはその方を証しするために生かされて来た。聖書の中で最も低きに徹した人物であることは間違いありません。だからこそ、いと高き方を指し示すことが、聖なる方を証しすることが出来るのです。
 今、あなた方は知ろうともしない。しかし、既に父なる神様の権威を受けられた方が来られている。後から来られる方に全てを委ねた者の姿がここにあります。一切の権威を明け渡した者だからこそ示すことができた、イエス様のお姿がここにあります。

独り子である神

ヨハネによる福音書1章14~18節

澤田 武師

主題聖句 『言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。
        それは父の独り子としての栄光であって恵みと真理とに満ちていた。』  1章14節

 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」 ヨハネによる福音書が伝えるクリスマスには、人間の関与は一切記されていません。
 11節「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」と、神様が人間となられた、この事実を世の中は受け入れませんでした。しかし、そこにイエス様を証しする者として「洗礼者ヨハネ」が備えられていたことをヨハネ福音書は記しています。
 ヨハネ福音書は突然 「言は肉となった」 と記します。何の説明もなく、突然に真理が語られます。この短い言葉には、神様がこの世の全てを創造され、人間も創造されたこと。最も聖なるものが、被造物である人間となり、イエス様となられました。イエス様はこの世にお生まれになっただけではなく、そのご生涯を全き人間として歩まれたことが、この言葉の中に含まれています。
 「わたしたちの間に宿られた」 ここでの私たちは、まさに「この世」のことです。この世に、神様がイエス様として共に住まわれる。共に生活をされる。共に苦しまれる。神様が私たちと同じ苦しみを経験される。このような事はあり得ません。
 イエス様は群衆の中に一人居られるのではなく、私とあなたとの間に宿られました。それは、人の目でだけではなく、神様の目をもって私とあなたとの関係を見ることを示されるためです。心にイエス様の御言葉の語りかけがあり、それまでは気がつかなかった人の弱さに気付き思いやり、自分の弱さも共に考えて、共に生きようとする心が、わたしたちに与えられました。「わたしたちはその栄光を見た」 とは、私たちの内にも御言葉が「肉」となるということです。神様に従う者の心が、愛の形をとって現実となったことです。
 それは、私も神様の愛が分かる者となり、相手を思いやる心、仕える心、謙虚な心が、愛の行動として形になるということです。