生涯、満ち足りて

詩編91編

澤田直子師

 詩編91編はタイトルがない「みなしご詩編」と呼ばれるものですが、ある研究者は自分なら「神はわがふるさと」というタイトルにしたいと言います。自分には帰るところがあるという感覚を「帰属意識」と言います。具体的な場所にも使う言葉ですが、仲間同士の心の絆に対してよく使われます。信仰者が帰属するのは、天国ではなくそこにおられる神様です。
 91編の背後には物語を感じます。長い間、忠実な信仰者として歩んできた人に、何か試練があった。今まで何度もそうしてきたように、彼は神殿に詣でて、心を注ぎ出して祈ったでしょう。その姿を見かけた誰かが声をかけてくれ、話を聞いて慰め励まし、一緒に祈ってくれたのではないか。祈りのうちに、神様のお応えが示されたのではないか。
 1~13節は、信仰者は神を隠れ場として平安を得、神はあらゆる手段をもって、信じ依り頼む者を守ることが証されています。ここまでは、人が人を力づける言葉ですが、14節からは、祈る者の姿を見ていた神様ご自身がかけてくださるお言葉ですから、ここからは、神様がわたしにこう話しかけてくださっている、と思って読んでいただきたいところです。
 「彼」となっていますが、もちろん男性限定ではありません。女性も神様の目に映っています。14節 「わたしの名を知る者だから」 聖書では「名を知る」ことは、その人の全体像を知ることを意味しています。また「名」は「足跡」とも訳せる言葉を使っています。神様の存在と自分の存在には深い関係性があり、共に歩んできたと信じていることを示します。15節は未来のことではなく、今までも 「彼と共にいて助け」 て来たことをこれからもずっと続けようというのです。
 その行きつくところは16節 「生涯、彼を満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せよう」 わたしに満ち足りるものは何か、これを間違えてはいけません。聖歌473番の歌詞をご味読ください。敬老感謝の対象となった兄姉が、神様と共に歩み満ち足りている姿を証明してくださっています。