神の子となる資格

ヨハネによる福音書1章6~13節

澤田直子師

 6節に登場するバプテスマのヨハネは、「光」イエス様を証しするために世に送られた人です。本論は9節から始まりますが、福音書を書いたヨハネが、イエス様が救い主であることは、自分が言っているだけでなく、あのバプテスマのヨハネも同じことを言いました、と念を押したわけです。
 9節には大事なことが3つ並べられます。①「光」はまことの光、唯一にして絶対、永遠であること。②それは自分から世に来ること。③その目的はすべての人を照らすこと。
 まことの光は、私たちを照らしながら、内にも外にも見るべきものを見せようとします。私たちは見たいものが見たいが、神様にはどうしても見せたいものがあります。光が世に来ることに関してはイザヤ書53:12に預言されています。『それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を受ける。』 まことの光、イエス様は、私たちを勝ち取ったのです。それは楽な戦いではなく、御自身も苦しんで傷ついて、勝利されたのです。「すべての人を照らす」神様にとって「すべて」と「ひとり」は同じ意味です。「すべての人」のところにご自分のお名前を入れて読んでみてください。
 12節 『しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた』 この御言葉が主題です。「その名を信じる」とはどういうことでしょうか?神に愛されるとは、たいへんな事です。家族でも子どもでさえも、その愛に応えられるか、重く感じる時があるものです。ましてや全知全能の神が 『わたしの目にあなたは価高く、貴く・・』 どこかの立派な人が言われているのではありません。この私が言われるのです。神の子になる資格とは、神に愛される覚悟を持つことです。モーセは「主は焼き尽くす火、熱情の神」と言いました。私たちがこの世のものによそ見をし、心を奪われる時、神様は悲しみ、世を妬まれるのです。それを知って、何と重い愛だろう、しかし最善であることはわかりますから、とにかく従います、というのが「その名を信じる」ということではないでしょうか。

私を照らす光

ヨハネによる福音書1章1~5節

澤田直子師

 ヨハネによる福音書は、イエス様の弟子のヨハネが紀元100年ごろに書いたと言われています。それ以前にマタイ・マルコ・ルカの福音書によってイエス様のご生涯について書き記されていましたが、教会が成長するにつれて、事実を証言するだけでは不十分という状況になりました。
 なぜ神の独り子が、なぜ十字架が、なぜ復活が、イエス様のご生涯は、誰の、何のために、どのように、なぜなら、という問いに丁寧に答えるために書かれたのがヨハネによる福音書ではないかと思います。「初めに言があった。」 言をギリシャ語でロゴスと言います。「ロゴス」は日本語には訳しにくい言葉です。明治時代のギュツラフ訳では「かしこいもの」、リビングバイブルでは「キリスト」と訳されています。難しいロゴス論は専門家にお任せして、私たちは言葉通りに読みましょう。
 4節 「命は人間を照らす光であった。」 私たちは、まだ神を知らない時でも命について考えます。私たちを取り巻くあらゆるものに命を見ることができます。自分自身、かけがえのないたった一つの命を生きています。ヨハネの福音書の冒頭は、私と神様との関係性を言っているのです。
 私が生まれるずっと前から、世界の初めからキリストはおられた。私の周りのあらゆるものは神に造られ愛されている。神とキリストと被造物に無関係のものは一つもない。神様が「光あれ」と造られた光は、「私」を照らす光だったのです。イエス様は、在り様、御性質として命であり光です。
 その全てを与えるため、全てに仕えるために存在されるお方です。そして神様にとっての「全て」は「一人」と同じ意味を持ちます。ヨハネ冒頭の7行が言っているのは、神様とこの私とは世の始まりから深い関係を持っている、という極めて単純なことです。ゆえに、神様の喜びは私を喜ばせ、私の痛み悲しみは神様を痛ませ悲しませます。
 ヨハネによる福音書は、ただひたすら、光はある、最初から今に至るまでずっとあなたと共にある、と証し続けます。ですから聖書では信仰者を「ひかりの子」と呼びます。ひかりの子として歩みましょう。

勝利を得る者

ヨハネの黙示録21章3~7節

澤田 武師

主題聖句 「すると、玉座に座っておられる方が、『見よ、わたしは万物を新しくする』と言い、また、『書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である』と言われた。」 ヨハネの黙示録21書5節
 ヨハネは何を「見よ」と言われたのか。それは、今までヨハネが見て来た世界とは異なり、神様と人間が共に住み、神様と人間の交わりが回復された世界です。イエス・キリストにより罪に覆われていた世界が去り、新しく現る世界です。その時にはイエス様が再び来られる。これが「再臨」の希望です。
 ヨハネは語りかける声を聞きます。新しい世界には、もはや死はなく、悲しみも嘆きも労苦もない。神様は慰め主として、すべてを拭い去ってくださる。最後の敵である「死」さえも、拭い去られます。死はアダムの罪の結果として、人間に課されたものでしたが、この問題も今や完全に解決されました。
 天地創造の初めには、死も悲しみも嘆きも労苦もありませんでした。神様はこれらを創造されませんでした。原罪は神様の思いから人間を引き離しましたが、その関係は元へ戻る。神様が再び創造される時が、救いの完成の時です。
 再創造について、神様は「万物を新たにする」とヨハネに語りかけます。すべてが変わる。世界もそこに生かされるものも、そのすべてが新しく変えられます。そしてこれこそは「信頼できる事実である」から「書き記せ」と、命じられます。希望の命令です。神の愛により頼む者はすべて「勝利を得る者」として神様からの栄光を受けて、完全勝利を収める者となります。
 「再臨」は明日来るかもしれません。私たちが地上で生きている間には来ないかもしれません。それは誰にも分かりません。聖書にも書かれている通り、神様だけが決めておられる時だからです。だから待たなくても、だから考えなくてもよい、ということではありません。「再臨」の恵みによって、神様は私たちに永遠を想う心を与えてくださいました。この永遠を信じて、多くの者が既に天に帰りました。永遠を待ち、永遠を信じて地上の働きを終える、それは希望の生涯ではないでしょうか。私たちも書き記しましょう。私たちの信仰を。生かされている喜びを。

神の癒し

エレミヤ書17章5章14~18節

澤田 武師

主題聖句  「主よ、あなたがいやしてくださるなら わたしはいやされます。」  エレミヤ書17章14a節
 「四重の福音」その三番目の「神癒」とは、「神様が私たちの病を癒してくださる」ということです。
 聖書は旧新約問わず、魂の問題と同時に、私たちの肉なる「存在」、この「からだ」と「こころ」をもって、「日々の生活」をしている私たちそのものにも関心があることを記しています。
 私たちは日々苦しみを感じて生きています。その中でも病気は、風邪程度のことであったとしても、体にも心にも痛み苦しみを感じさせるものです。聖書には病気の癒しという記事が多数記されています。今も昔も病気が人々を苦しめるものであることが示されています。
 イエス様の十字架と復活によって、人の罪は赦されます。これが福音であり神様の救いですが、それは心の問題だけでなく、人の全体に関係します。イエス様は奇跡として体の癒し、心の癒しをされました。その御業は私たちの祈りによって、今も私たちの日常の中で、体験される出来事となっています。
 また「神癒」は神様の恵みと憐みによって、私たちに健康な体と魂を与えてくださることであるとも言えます。
 私たちは弱さをもっています。体の弱さ、心の弱さ。それは悪いだけのことではありません。日々健康である、その恵みの姿を改めて知るとのできるのは私たちが弱くなった時です。その弱さの中に、神様は「癒しの御手」を伸ばしてくださいます。私たちの弱さはそこに神様の癒し、そして、そこに生かされている「私の存在」の意味を、改めて教えてくださるということです。
 エレミヤは、「神様が癒してくださるならば、神様が救ってくださるならば」と、神様の言葉にすべてを委ねます。エレミヤを嘲る者からの言葉は、エレミヤを縛り続ける苦悩の痛みとなり、それは迫害の傷であり、心の痛みでもあります。それでも「あなたは避けどころ」とエレミヤは最後まで訴えます。
 この世も病んでいます。そこにも「癒し」の御手は伸ばされています。