私を照らす光

ヨハネによる福音書1章1~5節

澤田直子師

 ヨハネによる福音書は、イエス様の弟子のヨハネが紀元100年ごろに書いたと言われています。それ以前にマタイ・マルコ・ルカの福音書によってイエス様のご生涯について書き記されていましたが、教会が成長するにつれて、事実を証言するだけでは不十分という状況になりました。
 なぜ神の独り子が、なぜ十字架が、なぜ復活が、イエス様のご生涯は、誰の、何のために、どのように、なぜなら、という問いに丁寧に答えるために書かれたのがヨハネによる福音書ではないかと思います。「初めに言があった。」 言をギリシャ語でロゴスと言います。「ロゴス」は日本語には訳しにくい言葉です。明治時代のギュツラフ訳では「かしこいもの」、リビングバイブルでは「キリスト」と訳されています。難しいロゴス論は専門家にお任せして、私たちは言葉通りに読みましょう。
 4節 「命は人間を照らす光であった。」 私たちは、まだ神を知らない時でも命について考えます。私たちを取り巻くあらゆるものに命を見ることができます。自分自身、かけがえのないたった一つの命を生きています。ヨハネの福音書の冒頭は、私と神様との関係性を言っているのです。
 私が生まれるずっと前から、世界の初めからキリストはおられた。私の周りのあらゆるものは神に造られ愛されている。神とキリストと被造物に無関係のものは一つもない。神様が「光あれ」と造られた光は、「私」を照らす光だったのです。イエス様は、在り様、御性質として命であり光です。
 その全てを与えるため、全てに仕えるために存在されるお方です。そして神様にとっての「全て」は「一人」と同じ意味を持ちます。ヨハネ冒頭の7行が言っているのは、神様とこの私とは世の始まりから深い関係を持っている、という極めて単純なことです。ゆえに、神様の喜びは私を喜ばせ、私の痛み悲しみは神様を痛ませ悲しませます。
 ヨハネによる福音書は、ただひたすら、光はある、最初から今に至るまでずっとあなたと共にある、と証し続けます。ですから聖書では信仰者を「ひかりの子」と呼びます。ひかりの子として歩みましょう。