この人は何者か

使徒言行録28章1~10節

澤田直子師

 パウロたちは、とにかく全員無事に陸に上がることができました。上陸したのはマルタ島でした。島の人々も親切で、安心したところで、今度はパウロがたき火に枯れ枝をくべたらマムシに噛まれるという事件が起こります。素朴で呪術的な信仰を持つマルタ島の人々は、パウロに罰が当たって倒れるのを待ちましたが、何事もなく火に当たっているパウロを見て、今度はこの人は神様ではないかと思います。さらに、土地の名士プブリウスの父親の病を、手を置いて祈り癒した姿を見て、その信頼は固くなり、冬を越して再び出航する時には、必要なものを全て揃えてくれました。
 キリスト教会では、聖書や教理を学ぶことを大切にして、洗礼を受けてからもずっと学び続けます。真の神は人格的に私たちと交流を持ちたいと望んでおられますが、人間は時々神様を見失ってしまうからです。私たちは神様について学ぶにつれ、神を知り尽くすことはできないと悟ります。しかし人間が作る偶像はわかりやすく、崇拝するのに学びは要りません。ここが真の神と偶像との大きな違いです。
 マルタ島では、パウロたちの姿を通して、真の神様が知られることになりました。私たちの住むこの世界でも、遣わされて行く先で、私たちは、誰かが初めて出会うクリスチャンになるかもしれません。私たちの姿を通して、神様に出会う人がいるかもしれません。ドラマや映画の登場人物をしばらく見ていると、話し方や服装や立ち居振る舞いで、良い役か悪役か判断がつくものです。イエス様は 『わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。』(ヨハネ13:34)、パウロは 『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。』(テサロニケⅠ5:16~18)と教えました。ヤコブは 『御言葉を行う人になりなさい』(ヤコブ1:22)と勧めます。御言葉の一つでも行うことができたなら、世の「あなたは何者ですか」との問いに、クリスチャンです、と答えて神様に栄光をお返しできるのではないでしょうか。

苦難の果てに

使徒言行録27章39~44節

澤田直子師

 陸地に近づき、ほっとしたのもつかの間、パウロたちに再び命の危険が迫ります。船には何人かの囚人が乗せられていました。中には処刑されるためにローマまで連行される者もいたでしょう。一か八か、海に飛び込んで逃げきれれば、と考える囚人がいても不思議ではありません。一方、ローマの兵士にとっては、囚人を逃がせば重い罰が待っています。ならばいっそのこと、船の上で殺してしまえばいい、ということになります。しかしここで、パウロの存在が彼らの命を救います。百人隊長がパウロを助けたいと思った、これは、神様が彼にそういう思いを持たせた、ということでしょう。
 これこそがクリスチャンのあるべき姿です。創世記18章には、ソドムを滅ぼそうとする神の使いに対して、アブラハムが、「その町に正しい人が50人いたら、30人なら、」と食い下がり最後には10人いれば滅ぼさない、という約束を取り付けます。クリスチャンとは、この10人のようなものです。
 船にはパウロとアリスタルコとルカの3人のクリスチャンがいました。日常的に、一緒に祈り、賛美をしていたでしょう。百人隊長は、パウロたちの姿に、キリストの真理を垣間見たのでしょう。これは、イエス様の十字架の死を見届けた百人隊長が 『本当に、この人は神の子だった』 と信仰を告白したことを思い起こさせます。
 一人のクリスチャンがいるということは、そこで完結するのではなく、その一人が世に発信する何かによって、誰かの心が目覚める可能性をはらんでいるということです。世界中のクリスチャンが、キリストに倣う者、キリストに似た者として、それぞれの日常の一部を捧げています。その姿が、まだキリストを知らない人々にも届いているのです。
 神様を信じる人生には、苦難や悲しみはない、ということはありません。神様は、その信仰に合わせて問題を出されます。試験の性質上、上級者になるほど問題は難しくなります。神様からいただく問題を四苦八苦して解く信仰者の姿を、世が見ています。どんな試験でも、まず名前を書き、問題文をよく読むことが大切です。名乗りをあげて、神様の問題にチャレンジしましょう。

命へ導く言葉

使徒言行録27章27~38節

澤田 武師

主題聖句 「だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。
        あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなること はありません。」    27章34節

 パウロのローマへの船旅は、最初から“風に翻弄される”船旅になりました。今、船は“エウラキロン”と呼ばれる暴風雨の中で、ただ漂流するのに任 せるだけです。風は時として「追い風」にも、また「向かい風」にもなります。物事を加速させることも、また絶望の中に留まらせる力にもなります。今 にも座礁、難破する不安と死への恐怖だけが、この船には満ちています。
 パウロはこの命の危機の中で、神様の声を聞きます。神様から託されたローマへの船旅であるからには、絶望にある者の命を守り、神様が全てを供えてく ださっている旅であることを語ります。
 そして船員たちは、夜の闇の中で、経験から陸地が近いと感じました。実際 に測ると水深は37メートルしかありません。確実に陸地は近くにあります。それは、命が助かるという希望が与えられたということです。
 しかし、新たな不安も生まれます。浅瀬に座礁する恐れもあるということです。パウロは陸地が近いことを知り、神様の約束が成ると確信しました。そして、今まで食事をすることも忘れていた者たちへ、上陸までの体力を保つために、食事を取ることを勧めます。この食事は、神様がパウロに託された一人一人の命を養うことになります。皆が一つになって食事をする。パウロが命へと導いた言葉は、今ここで、だれ一人残さず命を与える食卓に招かれた者たちに成就しました。
 パウロが準備したこの食卓は、これまでパウロが語ってきた神様の約束が確かであり、間もなく成し遂げられることを具体的に表した出来事です。暴風雨の中、何も希望がない中、先に喜びと感謝の食事をいただける。この食事は、皆を元気づけ、今まで一番望んできた希望となりました。
 私たちは神様が行われる御業を、到底全て理解するとはできません。しかし、神様の御言葉を土台として「何か食べてください」と言えるのです。確かな神様の約束として「元気を出しなさい」と励まし、救いを宣言できるのです。

あなたがたに告げる

ヨハネによる福音書16節5~15節

澤田 武師

主題聖句 「だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」

16章15節

 イエス様は弟子たちに、自分に代わって“弁護者”をあなた方に与えると約束されました。弁護者とはヨハネが書き記している聖霊のことです。「真理をことごとく悟らせる」聖霊は、神の真理とは何かをはっきりと悟らせるためにあなたがたに与えられる、と記されています。
 イエス様は、弟子たちに、別れが差し迫っている事を伝えます。弟子たちにはその意味はよく分かりませんが、「あなたがたの心は悲しみで満たされている」とあるように、弟子たちにとっては言葉を失うほどの現実を受け止めなければなりません。イエス様と一緒の歩みが終わる。「どうしてですか」「なぜですか」言葉にできない弟子たちの心の声です。
 イエス様のお言葉は、わたしが去っていくのは、それはあなた方のためになることであると続きます。別れに続いて新たな出会いが準備されていると話されます。もし、聖霊が降らなければ今もキリスト教は世界の一地方の宗教だったかもしれません。「一人一人に聖霊が降る」そして、世界のすべての者たちに「真理を示す」ために「弁護者」が与えられる。これは神の約束です。
 この世は罪に満ちている。神に逆らう生き方をしている。神の裁きがある。聖霊はこの世の暗闇をはっきりとわからせてくださいます。一人一人に聖霊が満ちた時、私たちの視線は神の真理を見る視線となります。その時、この世の誤りが見え、神の御心が分かります。私たちが神のご計画の中に生かされている者であるとはっきりと知ることになります。弟子たちが使徒として歩む、その準備が始まることを伝えています。
 聖霊は、一人一人に神を証しする言葉を、イエス様を信じる信仰を与えてくださいました。ペンテコステの日、人々は集められ、礼拝をして、共に祈り、持ち物を分け合いました。ここに教会が誕生します。この時から今日まで、教会は地上にあり続けています。教会は神の真理を伝えるところです。神の真理によって集められた者が、共に歩む場です。
教会は、そこに集う者が聖霊によって改めて自分の存在を知る場であります。