だれ一人滅びない

使徒言行録27章13~26節

澤田直子師

 紀元1世紀の船旅は、原始的かつワイルドなものでした。風任せ波任せで、天候頼みの部分が大きかったのです。冬を越すために移動しようと船出したパウロ一行は、クレタ島名物の山から吹き下ろす強風に吹き流されて、どんどん島から離れて行きます。風はそのまま嵐となりました。地中海の秋から冬によくある、何日も吹き荒れが続く本格的な嵐です。
 船中の人々は、助かる望みも消え失せ、何日も食事もできない有り様でした。そんな中で、パウロは立ち上がります。 『皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。』 一見何の希望もない、嵐にもまれる船の中で、この言葉を口に出すのは勇気のいることだったでしょう。
 パウロ自身、本当に生きてローマに行けるのか、と不安を覚えながら一心に祈ったのだろうと思います。そこに神の天使からの言葉 『パウロ、恐れるな』。天使の決まり文句の『恐れるな』です。恐れのあるところに、いつも神様は働かれるのです。第二コリント1:4 『神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。』 パウロだけでなく、どんな伝道者にも、信仰者にもあてはまる御言葉ではないでしょうか。
 わたしたちがキリストの体の一部であるならば、キリストの苦しみ悲しみの一部を引き受けなければならない時があるのです。イエス様がゲツセマネの園で祈られたように、わたしたちもそこから動けない祈りを祈る日があるのです。そして、そこで神様の慰めを知る時、『恐れるな』という言葉が自分のものなり、慰めを求める者から慰める者へと変えられます。
 わたしたちはキリストの体の一部ですから、キリストの言葉として 『『神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである。』(ヨハネ3:16)。』 と宣言できるのです。
 世の荒波の中で希望を失っている隣人のもとに行き、「ただ一人も滅びません」と宣言しましょう。それは神の御心です。

前途が多難でも

使徒言行録27章1~12節

澤田直子師

 パウロは、いよいよローマに向かって出発します。百人隊長ユリウスはパウロに一目置いて親切に扱い、仲間のルカやアリスタルコも同じ船に乗るという恵まれた船出でした。しかし残念ながら海に出るには、季節が少し遅かったのです。地中海では夏の終わりから春になるまで、強い風が吹き荒れます。パウロはそれを心配しましたが、船長と船主は大丈夫だろうと判断し、百人隊長ユリウスも船長の判断を支持しました。
 パウロは、おそらく危険な目に遭うだろう、船は難破するだろう、と予想しながら、船に乗っていきます。これは不思議なことに思えますが、しかし、信仰生活とは、時に、冒険が待ち構えていることを承知の上で前に進まなければならないことがあるのではないでしょうか。
 パウロと同じように船に乗って嵐に遭った預言者、旧約聖書のヨナは、海に投げ込まれて魚に飲まれ、三日目にニネベの海岸に吐き出されました。神様のご計画は成就するのです。
 イエス様の十字架の死を見届けた律法学者は、自分たちの天下だと喜んだでしょうが、実はそうではなかった。復活のイエス様に会った弟子たちはもうこれで大丈夫と安心したでしょうが、そこからが本当の出番でした。
 わたしたちが世を見て判断することと、神様のご計画の進み方は違います。パウロはそのことをよくよくわかっていました。だからこそ、海が荒れることを、危険な目にあうことをわかっていて、神様のご計画の中に飛び込んで行ったのです。
 キリスト教を言い表す言葉が幾つかあります。「愛の宗教」「体験の宗教」など。その中に「にもかかわらず」の宗教、という言い方があります。パウロはキリスト教の迫害者だった。にもかかわらず、福音を伝道する者に変えられた。皆さんの信仰生活の中にも、たくさんの「にもかかわらず」があるのではないでしょうか。
 前途の多難さに立ちすくむわたしたちと、「神は共にいます」というのがキリスト教です。神共にいますならば、パウロのように前途に何が見えようと、主に信頼して世に漕ぎ出して行きましょう。

今、福音を聞いた

使徒言行録26章24~32節

澤田 武師

主題聖句 「今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります。」  26章29節
 フェストゥスは、パウロの弁明を中断させます。偶像の神で心が満たされているローマ人には、「福音」「良き知らせ」は届きませんでした。
 アグリッパ王は、パウロの話が充分でないと答えをごまかしますが、実は自分の信仰の矛盾に「つまずき」を覚えてようにも思われます。このつまずきが「福音」を「聞く者」となることを退けました。
 信仰生活の中には「つまずき」を覚える時もあります。信仰につまずくのではなく、正確に言うならそこで行われる「人間の現実」につまずくのです。私たちに与えられた「福音」は決して私たちをつまずかせない。「福音」は決して裏切らない。パウロの問いは、今私たちは本当に「福音」を信じているのか「福音」に土台を置いているのかとの迫りに聞こえます。
 29節「今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります。」このパウロの言葉は聞き方によってはとても傲慢であると思えます。事実、パウロに対して「頭がおかしい」「説き伏せるつもりか」と決めつけている彼らにとっては、「福音」から離れる決定的な言葉となってしまいました。
 「今日この…神に祈っています。」この言葉はパウロの生涯を貫く信仰者としての姿勢を表した証詞です。復活のイエス様に出会い、神様の愛によって罪赦された者として生まれ変わり、どこでも誰にでもイエス様の福音を述べ伝える者として生かされて来た。自分ほど神様の愛に生かされている者はいない。自分の存在の意義を知っている者はいない。パウロは神様を知ることは、自分自身の存在をはっきりさせることであると確信しています。
 イエス様は、種を蒔く人の例えを話された後、「聞く耳のある者は聞きなさい。」と言われました。「聞く耳のある者」とは、復活のイエス様に捕らえらえて、その生涯をかける者のことです。すなわち今証詞をしているパウロの存在を受け入れることができる者です。パウロを受け入れることは、パウロの生き方を受け入れることです。パウロが生きた同じ道を選ぶことです。
 私たちにも福音を伝える者、福音の恵みの中に歩んでいる信仰者として、存在自体が証詞となれるように祈りましょう。

天からの光を見た

使徒言行録26章12節~23節

澤田 武師

主題聖句 「つまり私は、メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げることになると述べたのです。」               26章23節
 パウロはダマスコへ向かうキリスト者迫害の旅の途上で、復活のイエス様に出会います。その時からパウロは、イエス様の福音を宣べ伝える者として生涯を捧げます。生き方が180度変えられました。
 使徒言行録には3度パウロの回心の出来事が記されています。繰り返し語られるのは、復活のイエス様との出会いがパウロの信仰の原点となった厳粛な事実であるからです。12節以降では、パウロは、かつては「人からの権威」で生きてきたが、今は「天からの権威」に生かされていることを、驚きと喜びを込めて語っています。
 イエス様に出会う前、パウロが自分の生涯の業として「選んだ」のが「イエス様を信じる者を捕らえる」ことでした。それこそ神様に喜ばれる行いであり、律法を守り救われるための働きであると信じていました。しかし、声が聞こえます。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」この声はイエス様がパウロだけに聞かせた、わたしがここに居るという御声です。
 パウロは、復活のイエス様に出会い、新たに「奉仕者」「証人」「使徒」という、「天からの権威」を与えられた者へと変えられました。「自分の足で立て」神様が預言者として用いようとする時の「選び」の言葉です。パウロは新たな使命に「遣わされた者」として、ここから立って歩みはじめることになります。これはイエス様に託された使命です。
 キリスト教信仰は「選び」が重要です。私たちの信仰の原点、信仰に導かれた時など「選びたくなかった」が選ばざるを得なかった場合があります。「選ぶ」ことは「神様の御言葉に従う」ことです。イエス様の十字架の苦難、復活の喜び、福音を世界中に述べ伝えることを、パウロは「選び」、生涯をかけて証詞していきます。パウロの信仰の原点がここにあります。「天からの光を見た者」として、こう生きる以外なかったのです。