今、福音を聞いた

使徒言行録26章24~32節

澤田 武師

主題聖句 「今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります。」  26章29節
 フェストゥスは、パウロの弁明を中断させます。偶像の神で心が満たされているローマ人には、「福音」「良き知らせ」は届きませんでした。
 アグリッパ王は、パウロの話が充分でないと答えをごまかしますが、実は自分の信仰の矛盾に「つまずき」を覚えてようにも思われます。このつまずきが「福音」を「聞く者」となることを退けました。
 信仰生活の中には「つまずき」を覚える時もあります。信仰につまずくのではなく、正確に言うならそこで行われる「人間の現実」につまずくのです。私たちに与えられた「福音」は決して私たちをつまずかせない。「福音」は決して裏切らない。パウロの問いは、今私たちは本当に「福音」を信じているのか「福音」に土台を置いているのかとの迫りに聞こえます。
 29節「今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります。」このパウロの言葉は聞き方によってはとても傲慢であると思えます。事実、パウロに対して「頭がおかしい」「説き伏せるつもりか」と決めつけている彼らにとっては、「福音」から離れる決定的な言葉となってしまいました。
 「今日この…神に祈っています。」この言葉はパウロの生涯を貫く信仰者としての姿勢を表した証詞です。復活のイエス様に出会い、神様の愛によって罪赦された者として生まれ変わり、どこでも誰にでもイエス様の福音を述べ伝える者として生かされて来た。自分ほど神様の愛に生かされている者はいない。自分の存在の意義を知っている者はいない。パウロは神様を知ることは、自分自身の存在をはっきりさせることであると確信しています。
 イエス様は、種を蒔く人の例えを話された後、「聞く耳のある者は聞きなさい。」と言われました。「聞く耳のある者」とは、復活のイエス様に捕らえらえて、その生涯をかける者のことです。すなわち今証詞をしているパウロの存在を受け入れることができる者です。パウロを受け入れることは、パウロの生き方を受け入れることです。パウロが生きた同じ道を選ぶことです。
 私たちにも福音を伝える者、福音の恵みの中に歩んでいる信仰者として、存在自体が証詞となれるように祈りましょう。