騒動を引き起こす者

使徒言行録24章1~10節

澤田 武師

主題聖句 「実はこの男は疫病のような人間で、世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こしている者『ナザレ人の分派』の主謀者であります。 24章5節
 カイサリアは異邦人の町、ユダヤ人の影響を受けない町です。この町へ、パウロを訴えるために、大祭司アナニアは弁護士テルティロをも同行させて行きます。裁判の勝利に対する執念を感じさせます。
 テルティロの告発は、ローマ総督フェリックスに対して最大級の褒め言葉から始まります。そしてパウロを3つの罪で訴えます。「騒動」を引き越している。「ナザレの分派」の主謀者である。「神殿を汚した。」という罪です。ここに、テルティロの人の心を支配する、巧みな技があると思います。
 事実、歴史はフェリクスがローマ総督であった時、彼が冷酷な態度でユダヤ人の反乱を鎮圧したために、さらなる反乱を招いていたと記しています。反乱は増え、世は不安でした。フェリクスへの称賛の言葉はかえって、彼に不安を与えたのではないでしょうか。それは他人ごととしてではなく、フェリクスは「自分自身への裁きの言葉」とも聞こえたのではないでしょうか。
 パウロの罪状は大祭司アナニアたちの「自分たちの真実」から作られました。それは「偽りと事実を混ぜ合わせて作った真実」です。テルティロはそれを聞きましが、彼にはそれが偽りであることはわかっていたと思います。テルティロの言葉は大祭司アンナスの思いを実現させるために、フェリクスを動かすために訴え続けられた計算された言葉です。彼の言葉からは事実は聞けません。
 マタイによる福音書では、番兵たちは復活の「事実」を祭司長たちに報告しましが、彼らは自分たちの「真実」へと変えてしまいました。
 パウロは「復活の主」の事実を伝え続けて来ました。事実をこの世は受け入れません。信じません。排除しようとします。そこに「騒動」は起きます。
 騒動は私たちの心の中にも起きます。もし騒動が起きなければ、何も感じなければ、それはこの世に従って生きているということです。「騒動を引き起こす者」、その名前はイエス様の福音を聞き、生きる者の栄誉ある名前です。福音はこの世に騒動を起こすために響きます。福音を聞いてゆきましょう。

動き出す時

使徒言行録23章23~35節

澤田直子師

 パウロを殺そうとするユダヤ人の陰謀を知った千人隊長は迅速に動きます。パウロ一人につく護衛の数は470人。エルサレムに駐屯しているローマ兵の半分近くです。もし、パウロがローマの市民権を持っていなかったら死刑になっていたかもしれません。『主の山に備えあり』パウロはローマ軍に命を守られただけでなく、ローマの公費で、護衛付きでローマへの旅を始めたわけです。
 物事が動く時というのは、わたしたちの想像を超え、人間的な思いを吹き飛ばすようにして動くものです。2016年の小松川教会のクリスマスシーズンは、まさにそういう時ではなかったでしょうか。白百合保育園のページェント礼拝、教会のクリスマス愛餐会、原登名誉牧師のご葬儀、クリスマスイヴ礼拝、クリスマス礼拝、と一週間の間に行なわれました。
 この時の辛さは、物理的な忙しさよりも、ふさわしくない者が事に当たらなければならないところにありました。本当なら、どれをとっても大切な事に、誰もが納得する十分な準備をしたかったのです。しかしそんな余裕はなく、そこに居る者ができる限りを捧げなければならない。そういう時があるものです。
 わたしたちには理解できない速さで物事が動く時、そこには神様のご計画が働いているのです。わたしたちは何もできないのではなく、神様のお創りになる大きな流れの中の、必要な一人です。そこを信じ切れるかどうかで、起こったことに対して感じることが全然違ってきます。試練から逃げることばかりを考えてつぶやき続けるか、試練を受けて立ち、その場でできることに取り組むか。
ローマの信徒への手紙8章28節。『神を愛する者たち、つまりご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。』この手紙は、パウロが第3次伝道旅行を終えてエルサレムに帰ろうとした時に、船が出ずコリントに足止めされた時に書かれたものです。先を予見していたような言葉です。わたしたちも間違いなく「ご計画に従って召された者」です。信じて歩みましょう。

裁く者、助ける者

使徒言行録23章12~22節

澤田直子師

 パウロを亡き者にしようと、40人ものユダヤ人が集結して誓いを立てます。誓願成就しない時は呪われてもよい、という強い近いです。彼らはユダヤ教徒でありながら、十戒の第6戒『汝殺すなかれ』より自分たちの正義を上に置こうとしています。人間が自分の義を貫くことにこだわるとこのような間違いに突き進んでしまいます。
 この危機を救ったのは、パウロの甥、名も記されていないユダヤの若者でした。彼は聞きつけた陰謀をパウロに知らせ、機転を利かせたパウロは百人隊長を通じて、千人隊長にこの陰謀を知らせます。一介の少年がローマの千人隊長にと、直に、二人だけで話をするとは、どんなに緊張したことでしょう。しかし若者が自分のすべきことをしっかりと行った時、この行動がパウロをローマに送るきっかけを作ります。
 聖書では、人が人を裁くことを厳しく戒めています。ルカ6:37『人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。』また、ローマ14章:4『他人の召し使いを裁くとは、あなたはいったい何者ですか』わたしたちは、自分は正しくはあり得ないのだ、ということを忘れてはなりません。イエス様の命に贖われたわたしたちは、他人を裁くなどできるはずがないのです。
 神様はわたしたちを本当に愛してくださっているので、選ぶ自由を与えてくださいました。わたしたちは、歩んでいく道の至る所で、「裁く者」になるか、「助ける者」になるかを選ばなくてはなりません。イエス様は、どちらを選ばれたでしょうか。十字架に釘づけられる時でさえ、イエス様は「助ける者」でした。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです。』この祈りによって、わたしたちはまだ罪人であった時に救われました。
 自分の正しさを鎧にまとって、「裁く者」となるか、それとも、小さな勇気を奮い起こして「助ける者」となるか。祈りによって、賛美によって、御言葉によって、わたしたちにはいつもイエス様に従う道が示されています。与えられた隣人を「助ける者」として歩みだしましょう。

新しい道を歩む

マタイによる福音書2章1~12節

澤田 武師

主題聖句 「ところが、『ヘロデのところへ帰るな』と夢でお告げがあったので別の道を通って
        自分たちの国へ帰って行った。」   2章12節

 クリスマスとは、神がこの世で私たちと同じ姿となられた出来事です。それはこの世の闇に神の栄光が介入し、「光と闇とが交差した時」とも表せます。
 マタイは、メシア誕生を告げる「占星術の学者が導かれた星の光」と、メシア誕生を知った「ヘロデ王の心の闇」との交差した時を記しています。起こった事実は一つですが、クリスマスを知った者は、それぞれが自分の真実を持ちます。真実によってそれぞれの行動が起こされます。
 「事実」は、それまでは考えられない困難にも立ち向かわせる、勇気と決断を与えます。メシア誕生の事実は、学者たちに過酷な砂漠の旅をしてまでも、ユダヤに行く決断を起こさせました。彼らには「メシアを拝みたい」との「真理」が与えられ、真理に生きる者と変えられました。
 神の計画は、ユダヤでは禁じられていた占星術でさえもキリストを示す道具として、示された者を神に大胆に近づく者として変えてしまいます。
 ヘロデ王にはメシア誕生の事実から「不安」が与えられました。彼は不安から聖書を調べさせます。聖書の預言は、不安が現実になったと確信させました。不安はエルサレムをも覆いました。神の光を拒む者の闇があります。
 私たちが礼拝、諸集会へ集うことは、万事を整えて臨むことです。聖書が語る神の真理を第一にすることです。日常生活を優先しては守ることが出来ません。神を求め従う者は、神を大胆に選び取ることができるのです。この世の砂漠を越えて、主の元へと招かれる。困難は人を、その場に留まらせようとしますが、真理が困難を乗り越えさせます。
 聖書では、クリスマスに招かれた者は、大胆に神の導きに従い、事実を伝え、それぞれ自分の生活に戻って行ったと記されています。
 私たちは祈ります。御心に大胆に近づく者として確信と勇気を与えてください。私たちの唇を真理の言葉を語るものに変えてください。罪の中に再び戻ることのない、新しい歩みを私たちに与えてください。

キリストに満たされる

エフェソの信徒への手紙1章20~23節

澤田 武師

主題聖句 『教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の
        満ちておられる場です。』      エフェソの信徒への手紙1章23節

 昨年は世界的に見ても、自然の驚異が人々を苦しめ、世情も急激な変化を始めました。この先の歩みには不安が高まります。そして世界はなおも戦争、テロ、貧困、差別と様々な名前によって支配され、その権威の下にあります。
 22節~23節「キリストを頭として教会にお与えになった。教会はキリストの体」であると述べられています。神は私たちが経験する、あらゆるものの上に立ち、あらゆる時代に「キリストの名」を示される方、全宇宙の上に立つ「頭」として教会にキリストを遣わし、キリストの名を置かれました。
 パウロは、「教会」は信仰的確信において一致する人々が集う事によって成立するのではない、と述べています。パウロは宇宙の頭としてのキリストが「満ちておられる場」として教会が立てられ、「キリストの体なる教会」として、世に存在すると述べています。
 キリストの体なる教会が既に存在し、人はそこの中に入ることによってキリストと共に現実の中で生きることが出来るのです。「すべてにおいてすべてを満たしている方」。私たちが共に存在することこそ「キリストの体なる教会」を作り上げて行くことになります。神はこの働きを私たちに託されました。
 教会は現実の世界で信仰に生き、信仰によって喜び、苦しむのです。神はキリストによってこの世を満たそうとしておられます。キリストの名を世界に示そうとしておられます。その働きを私たちに託しておられます。
キリストは一人一人の歩みに満ちたいと願っておられます。そして教会がキリストに満たされ、共同体として成長するために、私たち一人一人の霊的成長を願っています。
 キリストはすべてにおいてすべてを満たす方であり、あなたの信仰生活の成長にキリストはいつも満ちておられます。困難な時代だからこそ、教会も、私たちもすべてにおいてすべてを満たしている方に、満たされた歩みの一年でありますように。
*2017年小松川教会 教会標語聖句