主イエスは生まれた

ルカによる福音書2章8~20節

澤田 武師

主題聖句 『今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」 2章11節
 飼い葉桶はこの世の理不尽、苦難、困難を、そしてそこに生きる者たちの姿を表しています。突然の神様の介入は、幸せになるはずのマリアとヨセフに長旅をさせ、誰からの助けもない家畜小屋での出産を経験させました。
 神は全てを備えられる方です。イエス様をこの世の王として生まれさせることも、たくさんの人の祝福の中に生まれさせることもおできになりました。しかしあえて、イエス様を飼い葉桶、苦難や困難の中に与えられました。
 私たちも飼い葉桶の中にいるのです。理不尽、苦難や困難、悲しみの中にいる。イエス様は、私たちと同じ思いを同じように経験してくださるためにお生まれになりました。ここに神の愛を見ることができます。
 「ドラム缶に詰められた贈り物」というクリスマスに起こった実話の中に、「孤独感や挫折感がいちばん骨身にしみるのは、クリスマスの時だったのかもしれません。」という一文があります。異国に遣わされた宣教師一家のクリスマスを舞台に、信仰者、老旅人、子どもたちが、何の落ち度もないのに状況に翻弄されて、それぞれクリスマスに理不尽な目に遭うのです。
 しかし、神様は高慢に対する怒りを、不運な老人の境遇を、吹雪の日を恨む心を用いて、彼らのクリスマスを豊かなものに変えてくださいました。神が用いる時、高慢、欠乏、恨みすら平安になり得る、私たち誰もが共に生きる者と変えられる可能性があることを証しています。
 神が人として、飼い葉桶の中に生まれ、さらに十字架で死なれた、復活された。とても信じられないかもしれません。しかしその信じられない事こそが、私たちを救いに導いたのです。
 このお話は過去の出来事ではありません。私の「まさかこんな暗い所に」と思われるところに、既にイエス様はお生まれになってくださっています。あなたの周りを見回してください。神様がお示しになった証に満ちています。
*説教では「続とっておきのクリスマス」いのちのことば社を引用いたしました。

飼葉桶の救い主

ルカによる福2書1~7節

澤田直子師

ルカによる福音書2章1~7節は、クリスマスがどんなふうに始まったかをよく表しています。ルカは、この出来事が事実であったことを証明するために、当時の重要な出来事を記しています。アウグストゥスは初代ローマ皇帝で、人頭税をもれなく徴収するために住民登録を行いました。
 ヨハネとマリアが住んでいたナザレからベツレヘムまでは約140キロあるといいます。徒歩旅行では2週間以上かかったでしょう。しかし、この期間は、ヨセフとマリアが二人きりで、天の使いの言葉を話しあう絶好の機会になったのではないかと思います。正式な結婚前に身ごもったマリアが、村の人々の好奇の目や中傷から逃れる事にもなったでしょう。ローマ皇帝の命令の中にも神様の御計画を感じることができます。
 当時の宿屋については様々な憶測がなされています。商業目的で旅をするキャラバン隊のために、中庭を囲むようにして、小部屋を作り、すぐ外に出られる角の部分を家畜小屋にしたようです。この時は、住民登録のために来た人々が多かったので、家畜小屋に空きがあったのでしょう。初めての赤ちゃんを産むマリアには、付き添う婦人もなく、ヨセフだけが頼りでした。
 クリスマスの讃美歌には、イエス様をお迎えする家はなかった、でもどうぞわたしの心に来てください、というような歌詞があります。(参照:聖歌136番)しかし自分の心をしみじみとのぞいた時、わたしたちは、イエス様をお迎えするのに、家畜小屋以上の、飼い葉桶以上の物を用意して待っていると言えるのでしょうか。
 教皇ヨハネ23世の祈り『イエスよ、ごらんください。これがわたしの心です。わたしの魂は貧弱で、得に欠けています。わたしのたくさんの不完全さでできたわらくずは、あなたを刺し、あなたを泣かせてしまうでしょう。しかし主よ、これがわたしの持ち物のすべてなのです。』それでもイエス様は、飼葉桶に来てくださるお方です。わたしたちに光がなくとも、イエス様が光となって来てくださいます。この光によって、愛すること、赦すこと、助けること、清くあることに導かれて行きましょう。

神は共におられる

マタイによる福音書1章18~25節

澤田 武師

主題聖句 「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」 1章21節
 マタイは福音書の最初に、アブラハムから始まり、イエス様に続く壮大な系図を記しています。ユダヤ人は自らの存在を証詞するために、系図をとても重要なものと考えていました。系図には「…よってもうけた」と、彼らは人間として生まれたことを記しています。「そしてイエスがお生まれになった。」イエス様だけに用いられている言葉です。イエス様は神様のご計画として、神様が人間としてお生まれになった、救い主としてお生まれになったという事実を示しています。
 「夫ヨセフ」この名はマリアと婚約をしていることを現しています。しかし、妻マリアはヨセフにとても信じることの出来ない現実を告げました。「正しい人」であるからこそヨセフの苦悩はとても深いです。「表ざたにするのを望まず。」マリアのことは忘れてしまいたい。人間ヨセフの愛の限界が見えます。
 主の天使はヨセフに「ダビデの子ヨセフ」と呼びかけます。「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」そして「その子をイエスと名付けなさい。」名前を付けるとは、とても重要なことを表わしています。それは全てを受け入れることです。ヨセフは神様の愛を受け入れました。マリアを妻として受け入れました。全てを神様の愛に託した時に、十字架の贖いよって、すべての人の罪の贖いと救いの道が開かれたのです。
 ヨセフには、イエス様が十字架への道を歩む、その最初の使命が与えられたと言えます。使命とは、その目的のために、命を使う。命を削る。命を捨てて生きることの覚悟です。それが復活の勝利と栄光に至る道であったとしても、今はまだ、だれも神のご計画であるとは理解できません。
 
 ヨセフは行動をもって証します。ベツレヘムへの旅、宿屋を探す。神様はイエス様がお生まれになった後でも、親子の命を守るためにエジプトへ逃げること、新たな土地で生活をすることをヨセフに託されました。ヨセフこそ「神は我々と共におられる」生涯をかけて証し続けた人物ではないでしょうか。

マリア、恐れるな

ルカによる福音書1章26~38節

澤田 武師

主題聖句 「すると、天使は言った。『マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。』」  1章31節
 神が人間としてお生まれになる。誰が神のご計画としてイエス様がお生まれになると思ったでしょうか。誰が神のご計画の当事者になることを予想したでしょうか。クリスマスは人間の目からは突然始まったように思えました。聖書は実際に関わった者の戸惑いや、驚きや、悩み苦しむ姿を記しています。それは人間には理解も想像も出来ないことが事実となった「恐れ」です。
 天使はマリアにも「恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。」と語られました。マリアは突然母になることを告げられます。ヨセフと婚約をして、これから将来を共に歩む者を得た喜びは大きかったでしょう。しかし、その喜びは「恐れ」に苦悩に変わりました。
 マリアは特別な出来事であると理解しようとしますが、今はどうしても受け入れられません。「どうして、そのようなことがありえましょうか。」ここにマリアの「恐れ」があります。「主があなたと共におられる」この天使の約束は、神からの恵みです。しかし、この恵みを生涯にわたって信じて行くことには「恐れ」を抱く時も含まれています。
 「恐れ」とはギリシア語で「フォボス」という言葉です。「フォボス」という言葉自体は、中立的であり、用いられ方によって悪い意味にもなり、良い意味にもなります。
 クリスマスの出来事は、私たちにその全ては到底理解できません。それは、神の御心によって備えられた出来事だからです。しかし、ハッキリ言えることがあります。クリスマスを担った者たちの内にはそれぞれ「恐れ」があり、それを神は恵みに変えられました。彼らの恐れが、「真の信仰者」の証としての「畏れ」「かしこまる」となったことです。クリスマスは世の恐れを「真の平安」に変えてくださるために神が備えてくださいました。クリスマスを待ち望みましょう。