もう一度、行こう

使徒言行録15章36~41節

澤田直子師

 パウロはその生涯に3回の伝道旅行をしています。ここはその2回目が始まろうとするところです。エルサレムの使徒会議によって異邦人伝道は祝福されるべきものとして正式に認められ、「救われる」ための条件が明文化されて各教会へと伝えられました。このことは、ユダヤ人以外の人々にとっては大きな朗報であり、福音伝道が躍進するひとつのターニングポイントともなりました。パウロとバルナバは、かつて自分たちが福音を宣べ伝えた教会をもう一度訪れて、信仰者たちを励まし力づけたいと望みました。『さあ、前に主の言葉を宣べ伝えたすべての町へもう一度行って兄弟たちを訪問し、どのようにしているかを見て来ようではないか。』 36節
 どのような立派な信仰者でも、一度「イエスを主と信じます」と信仰を告白したら、あとはもうあらゆる誘惑や苦難から守られるかというと決してそんなことはありません。だからこそ、信仰の友が必要だし、心にかけていますよ、祈っていますよ、と伝えることは大切です。お互いが励ましあい、信仰を深めるために「もう一度行く」ことが必要なのです。
 ところがここで、何とパウロとバルナバが、けんか別れしてしまいます。命を懸けて福音を述べ伝えるために最善の道を選ぼうとして、この争いが起りました。どちらかが間違ったということではなく、二人とも信念をもって最善を選んで事に当ろうとして争いになったのです。彼らは分かれて伝道旅行に出発します。人間的には不安な出発ですが、神様はこの争いさえ用いられ、福音伝道を2倍に広げられました。
 先に福音の恵みにあずかった者たちは、後に続く人々に「もう一度行こう」と心を向けたいものです。人間が本気で物事をしようとすると、そこには対立が生まれることがありますが、神様は争いさえも用いられるお方です。『神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。』 ローマの信徒への手紙8章28節

主の家のために

詩編100編

澤田 武師

主題聖句 「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。」 〈1節〉
 創立90周年記念礼拝にふさわしい聖書箇所をと、思いめぐらしていましたところ、詩編100編が示されました。
 詩編100編は、150編あります詩編の中の、「招きの詩編」と分類されています詩編の一つです。100編、この詩編は、おそらく「感謝の献げ物を献げるために、礼拝者が行列をなして神殿の門を通って大庭に入る時」に歌われたものと考えられます。短い文章で神を賛美し、繰り返す。文章の構造上から、100編は体でリズムを刻み歩きながら歌い、踊りながら歌ったのではないかと推測できます。能動的な詩編です。
 旧約であろうと新約の時代であろうと、神の招きに応答する、すなわち礼拝を献げることは信仰者にとっては永遠に変わらない感謝です。
 礼拝を献げることとは、「感謝」であり「喜ばしい」ことです。日々の苦難からの神はわたしを「解放」してくださるために、神はわたしたちを礼拝へ「招いて」くださいます。わたしたちも喜ばしい時、感謝な思いの時には、思わず歌わずにいられなくなります。
 なぜ神はわたしたちを、神の前に招いてくださるのか。3節「主はわたしたちを造られた」わたしたちは、神を賛美するため、神に礼拝を献げるために「造られた」存在です。わたしたちは、「主のもの」であり「養われる羊の群」であります。造られ、日々の生活が養われ、さらに神の前に進み出ることを許された者。神に造られた者の特権です。その神との関係を、知ること。聖書で「知る」とは、具体的な行動を伴っています。
 今日礼拝に招かれた事を感謝いたしましょう。また、喜んで世の戦いに出向きましょう。疲れたらまた戻って来られます。神は何時でもわたしたちを招いてくださいます。この繰り返しが小松川教会の歴史です。全ての教会の歴史です。神が備えられた教会の歴史です。
 「全地よ」と呼びかけます。礼拝によって神との出会いの喜び、感謝をこの世の者すべてに伝えることを教会に託されました。そして、先に召されたわたしたちの生活の「全地」「主に向かって喜びの叫びをあげよ。」と、思わず叫びたくなるような喜び、感謝をわたしの神への応答として生きる者であり続けましょう。

わたしの主、わたしの神

ルカによる福音書20章24~29節

澤田武師

主題聖句 「トマスは答えて、『わたしの主、わたしの神よ』と言った。」 〈28節〉
 弟子のトマスが、「なぜ」他の弟子たちと、一緒にいなかったのか、その理由を聖書は記していません。トマスがいない間、イエス様は復活されたお姿を他の弟子たちには現されました。イエス様は弟子たちの真ん中に立たれて、「あなたがたに平和があるように」と普段と同じく挨拶をされました。弟子たちは「主を見て喜んだ」と、復活されたイエス様との他の弟子たちの再会の出来事を記しています。
 トマスは共観福音書、使徒言行録には名前だけが記されている弟子です。ヨハネはトマスとイエス様の会話を記しています。その話の内容から受け取れるトマスは、「イエス様と一緒に危険に向かう覚悟がある勇気ある人」であり、「自分を偽らず、納得いくまで求めていく人」との人物像が見えてきます。
 8日後、トマスは他の弟子たちと一緒にいました。しかし、弟子たちの話を信じません。「あの方の手に釘の後を見、この指を釘後に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と、断言します。「見る」だけではなく、「触れて」みなければ、イエス様が復活されたとは信じないと断言します。「疑い深い者」としてのトマスがここに居ます。
 イエス様はそのトマスに会うために、再び弟子たちの前にお姿を現されました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手をみなさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」トマスが求めていたことを実行するようにと、イエス様はトマスに迫ります。「信じない者でなく、信じる者になりなさい。」
 トマスはイエス様の迫りに気づきます。十字架の傷跡、本来その傷跡は私自身に有るべきであり、イエス様はそれを身代わりとして受けてくださった。トマスは答えて「わたしの主、わたしの神よ」と信仰を告白します。トマスの言葉はヨハネの福音書の信仰告白です。トマスの心は「疑い深い者」との鍵がかけられています。今それからトマスは解放されました。
 わたしたちが復活を信じるということは、不安なことであると思います。それは、見て、触って確認することが出来ないからです。しかし、聖書はイエス様の復活を記しています。そこにはこの世の「確かさ」ではない、主イエス様から与えられる本当の「平安」、それは疑いを「信仰」へと変えてくださいます。

エマオの食卓で

ルカによる福音書24章28~35節

澤田武師

主題聖句 『二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。』 24章35節
 エルサレムから60スタディオン離れたエマオという村へ向かっている二人の弟子に復活されたイエス様は近づかれました。
 復活されたイエス様は、多くの弟子たちにはっきりとそのお姿を現してくださり、いつもと同じく名前を呼ばれ、挨拶をされ、食事も共にされました。
 しかし、二人の弟子の目は「遮られていて、イエスだと分からなかった」と、記されたています。何によって弟子たちの目は遮られていたのでしょうか。また、なぜ、イエス様だと分からなかったのでしょうか。
 ここで重要なことは、彼らの目指すエマオの村への道のり以上に、彼らの心はイエス様から離れてしまっていることです。
 彼らはイエス様の弟子として、迫害を受けるかもしれない不安の中にあっても、他の弟子たちとエルサレムに留まることが出来ました。しかし、女性の弟子たちが告げた、「イエス様の遺体がなくなっている。」天使が伝えた「イエスは生きておられる。」この事実は彼らには「驚き」であり、それは「つまずき」に変わり、エルサレムから離れる決断をします。それは彼らが思っていた「真実」ではなかったからです。
 「やり取りしているその話は何のことですか。」イエス様は、離れて行こうとする心に、交わりを求めます。それは、イエス様が奇跡を願う者に問いかけた「何をして欲しいのか」との問いに通じるところがあります。「物分りが悪く、心が鈍い」イエス様は旧約聖書から真の「救い主」の姿を彼らにお語りになります。
 エマオの食卓で、イエス様は弟子たちにパンを裂いて与えられました。その時、裂かれたパンこそ罪の贖いのために死なれた、イエス様御自身であることが分かりました。彼らはすぐに、「心は燃えていたではないか」と、本来歩むべき道を歩み、留まるべき現場、エルサレムへと戻ります。
 私たちも遣わされて行きます。お一人お一人が遣わされたところへと、進んで参りましょう。エマオの生活には、信仰の戦いはありません。しかし、イエス様は居られません。遣わされた所にイエス様は共に居られます。