共にいる神

使徒言行録18 章9~11節

安藤廣之師(ミュンヘン日本語キリスト教会牧師)

導入:パウロと言えども、伝道に行き詰まりを感じることはあった。異邦人への使徒とは自覚したものの、それまでのユダヤ人としては彼らの間で伝えることには大きな抵抗があったと思われる。そんなパウロに主は大きな励ましを与え、コリントでの伝道が導かれた。宣教へと励まして下さる主を崇めたい。
本論1:主は私達と共にいる方(10節初め)
 私たち牧師や宣教師も時に孤独を感じるものである。コリントではアクラとプリスキラ、ユダヤの会堂管理者一家によって、多くのコリント人も救われた。しかしギリシャ人の世界の中で孤独と先行きの不安、身の危険を感じていた。イエス・キリストとは人となられた神(インマヌエル)であり、その方の聖霊を宿す私達にも、父は「あなたは私の愛する子、私はあなたを喜ぶ。」と語って下さっている。それは私たちの生き方、考え方を大きく変えるものである。  
2:主の民がそこにも備えられている(10節終わり)
 コリントはアポロン神殿を中心にした歓楽街であった。風紀や秩序の乱れは後のⅠコリントの信徒の手紙からも伺える。しかし主はそんなパウロに「この町には私の民が大勢いる!」と言われた。私もミュンヘンで開拓を始める時にも不安に襲われたが、ある婦人が小学生時代に千葉の教会のCSに通っていたということで、再び教会につながり救われたように、主はそこにもご自身の民、既に福音の種が蒔かれた人達を備えて下さっていた。
結論:主を伝え続けられる(11節)
 主が共にいること。主の民がここにもいると言う励ましによって、パウロはここに一年半腰をすえて神の言葉を教えることができ、神の教会が生まれた。主の先立つ恵み(救いの約束)は私たちを怠惰な甘えん坊にはしない。小学生のドッヂボールがそうであるように、この世に勝利された主のチームの一員であり、その子ども故にもキリストの香りが放たれ、自分にできることをしていけるのである。そんな天命(神の恵み)を知って、人事を尽くしましょう!

主の言葉はありがたい

イザヤ書39 章1~8節

佐々木良子牧師

 旧約聖書には様々な王の人生が記されていますが、その中で良い評価を受けている王の一人にヒゼキヤという人物がいました。しかし、彼も私たちと同じように弱くて罪深い人間でした。病で死の宣告を受けた時、主に向かって泣きながら祈った所、その寿命は15年生き長がらえ、主に感謝し賛美をささげました。しかし後に、愚かなことをした為に自国を破滅させることになったのです。
 ヒゼキヤ王が病から奇跡的に癒された頃、まだ大国にならないバビロンが、ヒゼキヤと同盟を結んで、当時世界を風靡していたアッシリア国に対抗しようという意図をもって、王に見舞いの手紙と贈り物を届けました。彼は有頂天になりに宝物や国家の秘密を自慢げに、全てを見せてしまったのです(2節)。このことが取り返しのつかない結果を招き、バビロンによって滅ぼされました。
 問題は王の自分の富と力を誇りたいという高ぶりからです。それまではアッシリア国からの脅迫状が届いても、余命宣告を受けた時も必死に主に祈りました。しかし、危機から脱出すると国の繁栄はあたかも自分の力で勝利したかのように神の恵みを忘れました。そこで預言者イザヤは、この後もたらされる神の裁きの宣告をしました(6~7節)。宗教改革者ルターは「人が人生を終える時に、自分が神や教会にどれだけ貢献し、功績があったかを考えるのは、敬虔な信仰深い人によくあるサタンの誘惑である」と戒めています。
 その後ヒゼキヤは、「彼は自分の在世中は平和と安定が続くと思っていた」(8節)と身勝手に見えますが、その後に「・・・思い上がりを捨ててへりくださったので、その時代に彼らが主の怒りに襲われることはなかった」(歴代誌下32:26)と、自分の誤りを認め、その亡骸はダビデの墓のある丘に葬られ、ユダとエルサレムの住民が彼に敬意を表したと記されています(歴代誌下32:33)。
 「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ・・・」(コリント二7:10)と、ヒゼキヤの涙は神の御心に沿う悲しみの涙と変えられたのです。預言者イザヤを通して語られた耳に痛い言葉も「主の言葉はありがたい」と、激動の人生を感謝をもって全うしました。
 神はどのような人の祈りでも、耳を傾け聴いてくださいます。どんなに罪を犯そうと、祈るのに相応しくない、罪深い生活をしていたとしても、人の祈りを聴いてくださるお方です。私たちの祈りを神は待っておられます。

確かな祝福をあなたに

使徒言行録13 章24~43節

佐々木良子牧師

 パウロたちが語る説教を聞いていた聴衆たちは今まで耳にしたことがない話しだったので深い感銘を受け、「人々は次の安息日にも同じことを話してくれるようにと頼んだ。」(42節)と、記されています。
  
 その内容とは、救いの言葉、福音でした。神がお遣わしになったイエス・キリストは、神の御言葉を理解しない人々によって罪に定められ、十字架につけられて殺されました。しかし、神はそのまま放っておくことはなさらず、甦えさせたという十字架と復活の言葉です(26~37節)。
 三日後に見事に墓を打ち破り死人の中から甦られたことによって「生」ばかりでなく「死」をも支配されるお方であることをはっきりと示しました。人間側が何か努力することで救われるのではなく、唯、イエス・キリストの十字架の故に為し遂げられた、罪の贖いのゆえに与えられる神からの一方的な愛です。
 代価を払ったのは私たちではなく、イエス・キリストがその命をもって支払われたこと、このことを無条件に信じることによって、全ての人が救われるという確かな祝福が、自分のために与えられていることを聴衆は初めて知り、備えられている永遠の命に向かってスタートしました(39節)。
 この説教によって、神の赦しと愛が刻みつけられ聴衆たちに対して「神の恵みの下に生き続けるように勧めた」(43節)と、パウロたちは助言しました。主イエスを信じて救われるということは大きな祝福ですが、一時の高揚感に浸ることではなく、しっかりとした救いの確かさに結びついていくようにと。
 「恵みの下に生き続ける」とは、神の御言葉に留まることです。「・・・この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。」(使徒20:32)とあります。神の確かな祝福の御言葉によって、人は新たに造り変えられ、養われていくのです。
 主イエスはこの世の無理解の中でも、その十字架と復活を私たちに示し続け、このことを教会は2000年以上語り続けています。
罪を赦し、命を恵み、私たちを造り上げてくださる確かな祝福を与えてくださる神がおられる幸いを私たちも知っています。そして、私たちを生かす神の御言葉が今も与えられ続けている幸いを思います。これからも神の恵みの下に生き続ける私たちでありたいです。

約束を果たされる神

使徒言行録13 章13~23節

佐々木良子牧師

 いよいよ本格的に伝道が世界宣教へと、第一次伝道旅行に出発したバルナバとパウロの一行は、現在のトルコへと向かおうとしていた時の出来事です。聖霊によって導かれた彼らたちでしたが、早々に様々な困難に直面しました。まず助手であるヨハネと呼ばれた人物が、そのチームから離脱してエルサレムへ戻ってしまったのです(13節)。
 諸説によりますと、これまでリーダーはヨハネのいとこであるバルナバでしたが、この時点でパウロに交代したことでついていけなくなったとか、トルコへの伝道にしり込みした、ホームシックにかかった等、とるに足らないような理由のように見えますが、このことが原因となってこの後第二次伝道旅行に出かける際、パウロとバルナバが既に離脱したヨハネを連れていくかどうかで大激論となり、この二人が袂を分かつことになってしまったのです。そのことを見ますとヨハネの離脱は大きな出来事でした。しかし、そのような状況の中で一行はピシディア州のアンテオキアに到着しました(2節)。この道のりは2千メートル級の山々が連なり、山賊たちも潜んでいるという極めて危険な道だったのです。「…川の難、盗賊の難・・・骨折ってしばしば眠らずに過ごし・・・寒さに凍え、裸でいたこともありました。」(Ⅱコリント11:26~27)と記されている如くです。神の救いの言葉はこのような状況で伝えられていったのです。
 人間側がどのような状況であっても、この後のパウロが語った説教を見ますと、神の御業は着々と進められていくこと、神の約束は果たされること等が分かります。彼の説教は旧約時代のアブラハムの神の選びから始まり、神がイスラエルの民を養い導かれたエジプト脱出の出来事・・・2000年間のイスラエルの歴史の結果、ダビデの子孫から救い主イエス・キリストを送ってくださったことなど神の恵みの歴史が鮮やかに示されています(16~23節)。
 「人は皆、草の花のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」(Ⅰペトロ1:24~25)人の歴史は旧約の時代から罪と不信心の繰り返しですが、キリストの救いへと導いてくださる神の愛は決して変わることなく貫かれています。現在も神のお約束は微動だにせず、ご計画は進んでいます。ですから希望と確信をもって私たちも福音を述べ伝えることができるのです。

「天の故郷の備え」 永眠者記念礼拝

ヘブライ人への手紙12 章1~13節

佐々木良子牧師

 今年も信仰の先達者を覚えて感謝の礼拝をお捧げしていますが、同時に私たちもこの世の歩みを終えて天に戻ることをも思わされます。日々の生活が既に神によって与えてくださっている天の故郷=天国への備えと繋がっていきます。
聖書では信仰者の歩みを「自分に定められている競争」と、レースに譬えられていますが、ここでは他人と競い合うものではなく、自分との闘いであると語っており、勝利のポイントは「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てる」、「忍耐強く走り抜く」とあります(1節)。
 長距離を走るにあたって、多くのものを持って走ることはできませんから身軽さが大切です。信仰生活も同じでシンプルであることがベストです。人は多くのものを持っていると安心しがちですが、様々なものを握りしめるほど不要な心配ごとや負担を負うこととなり、本来自分に定められた走るべき競争を走れなくなってしまいます。
 「絡みつく罪をかなぐり捨てて」と、私たちの足元に絡みついている罪があります。キリスト者といえどもこの世に生きている限り多くの罪を犯し続けています。その打開策として「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」と、助言しておられます(2節)。神様は私たちに対して孤独に「一人で頑張り抜きなさい」とは仰せになっておりません。創始者とは先導者という意味の言葉ですが、導き手である主イエスがゴールまでしっかりと先導してくださいますから、主イエスさえしっかりと見つめていれば大丈夫です。「見つめながら」とは、ちらりと一時横目で見るのではなく、見続ける状態を示しており、継続して主イエスと繋がり続けることが力となっていきます。
 更にこの世での困難・苦難を「・・・これを鍛錬として忍耐しなさい」(7節)と語られています。親は子どもを愛しているが故に溺愛するようなことはせず、敢えて様々な訓練をさせますが、神様も同様に私たちを愛しているからこそ、苦難をお与えになって一人前の信仰者として育ててくださいます。その目的は「義という平和に満ちた実を結ばせる」(11節)ためです。そうして天の故郷へと到達します。主イエスが先導してくださり、「おびただしい証人の群れに囲まれている」(1節)とありますように、既に天に召された方々が私たちの地上での信仰生活にエールを送ってくださっていますから何と幸いなことでしょう。