「天の故郷の備え」 永眠者記念礼拝

ヘブライ人への手紙12 章1~13節

佐々木良子牧師

 今年も信仰の先達者を覚えて感謝の礼拝をお捧げしていますが、同時に私たちもこの世の歩みを終えて天に戻ることをも思わされます。日々の生活が既に神によって与えてくださっている天の故郷=天国への備えと繋がっていきます。
聖書では信仰者の歩みを「自分に定められている競争」と、レースに譬えられていますが、ここでは他人と競い合うものではなく、自分との闘いであると語っており、勝利のポイントは「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てる」、「忍耐強く走り抜く」とあります(1節)。
 長距離を走るにあたって、多くのものを持って走ることはできませんから身軽さが大切です。信仰生活も同じでシンプルであることがベストです。人は多くのものを持っていると安心しがちですが、様々なものを握りしめるほど不要な心配ごとや負担を負うこととなり、本来自分に定められた走るべき競争を走れなくなってしまいます。
 「絡みつく罪をかなぐり捨てて」と、私たちの足元に絡みついている罪があります。キリスト者といえどもこの世に生きている限り多くの罪を犯し続けています。その打開策として「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」と、助言しておられます(2節)。神様は私たちに対して孤独に「一人で頑張り抜きなさい」とは仰せになっておりません。創始者とは先導者という意味の言葉ですが、導き手である主イエスがゴールまでしっかりと先導してくださいますから、主イエスさえしっかりと見つめていれば大丈夫です。「見つめながら」とは、ちらりと一時横目で見るのではなく、見続ける状態を示しており、継続して主イエスと繋がり続けることが力となっていきます。
 更にこの世での困難・苦難を「・・・これを鍛錬として忍耐しなさい」(7節)と語られています。親は子どもを愛しているが故に溺愛するようなことはせず、敢えて様々な訓練をさせますが、神様も同様に私たちを愛しているからこそ、苦難をお与えになって一人前の信仰者として育ててくださいます。その目的は「義という平和に満ちた実を結ばせる」(11節)ためです。そうして天の故郷へと到達します。主イエスが先導してくださり、「おびただしい証人の群れに囲まれている」(1節)とありますように、既に天に召された方々が私たちの地上での信仰生活にエールを送ってくださっていますから何と幸いなことでしょう。