罪が消し去られる

使徒言行録3章14~16節

佐々木良子牧師

 「だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい」(19節)私たちに呼びかける神の御声で、聖書全体に貫かれているお言葉です。
 人間の歴史は罪の連続と言われています。その最たるものは命の導き手であるイエス・キリストを十字架につけたことです(13~15節)。神は正しいお方ですから、罪を罪としてそのままにはしておかれず、「消し去られるように神を求めよ」と命じておられます。言い換えれば、悔い改めさえすれば罪を消して頂く事ができますが、悔い改めなければ罪は消されないということもできます。消し去るとは「無効にする、なかったことにする」という事で、神の前にある罪の記録を白紙にしてくださいます。その目的は又主イエスがこの世においでになられた時=再臨の時のためです(20節)。
 「・・・地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける・・・あなたがた一人一人を悪から離れさせ、その祝福にあずからせるためでした。」(25節) その為に神はイスラエルの人々を特別な立場に置き、彼らを通して諸国民に祝福をもたらそうとされました。神は先祖アブラハムと結んだ契約の祝福は、彼らを通して大きな責任と特権が与えられていたのです。そして、今、私たちがその祝福の源となるように神は望んでおられます。
 「主はこう言われる。わたしは恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。わたしはあなたを形作り、あなたを立てて、民の契約とし、国を再興して荒廃した嗣業の地を継がせる。」(イザヤ49:8節)罪赦されて今あるのは、私たち自身が祝福の源となって救いの道を示すためです。信仰とは個人に留まるものではなく、全人類がその祝福に与るために、先ず私たちが救われたのです。主なる神の目的に心を向けていくとき、神がこの私が祝福の源とさせてくださる事に感謝できる者へと変えさせて頂き、主イエスのお役に立ちたいと仕えるものとさせて頂けます。
 主イエスが十字架にお架かりになった時「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と執り成しの祈りを奉げられましたが、今もこの邪悪な暗闇の世界を救いたいと、罪びとの為に執成しておられます。神の御業は人間が神に従い、自ら一歩踏み出していく時に現れます。今こそ全世界の罪が消し去られるように祝福の源とさせて頂く時です。

金や銀はないが

使徒言行録3章14~16節

佐々木良子牧師

 目の前に困っている人がいればお助けしたいと人は手を差し伸べます。しかしキリスト者だからこそ、否、キリスト者しかできない事があります。それは、その方がイエス・キリストにつながって生きる事ができるように導びいてさしあげる事です。神、主イエスには、人の命をすっかりと造り変えられる人間にはない力があるからです。
 「・・・男が運ばれて来た。・・・置いてもらっていたのである。」(2節)人間としての人格的な交わりもなく、施しを受けるために人を頼るしかない生まれつき足の不自由な男の事が記されています。彼はいつものように神殿の「美しい門」と言われる傍に座って施しを乞うていました。所が「ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、わたしたちを見なさい。・・・わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。」(4~8節)彼は今迄聞いたことのない言葉を耳にしたのです。
 わたしたちを見なさいとは、主イエスは地上におられる時、多くの人を癒されましたが、今も彼らの内に主イエス御自身が働いておられることを体験させるためです。目に見える形では主イエスはおられませんが、聖霊を通して彼らに働かれ、その力によって彼は癒されたのです。私たちの内にもご臨在され、その働きは継続しています。
 このように目に見える形で歩けるようにはなりましたが、大切な事は癒されて大喜びでこの男が家に帰ってこの物語が終わったという事ではありません。この後彼は、救い主であるイエス・キリストを見据えていく歩みを始めたという事です。「躍り上がって立ち、歩き出した。・・・神を賛美し・・・境内に入って行った。」(8節)彼にとってこれまでの神殿は、人から施しを受ける場でしかありませんでしたが、今度は人を頼る歩みではなく、神から恵みを受ける者へとまるごと新しく造り変えられていったのです。
 人は自分の足で人生を歩いているように思いますが、本来は救い主イエス・キリストに出逢いながら、主を賛美しつつ神の国=天の御国に向けていよいよ歩んでいくことです。主イエスは私たちの賛美を受け取る形で出逢う事を望んでおられます。私たちも金や銀はもっていませんが、それよりも勝る恵み、主イエスを指し示す者として今を歩ませて頂いています。

初めての教会の姿

使徒言行録2章43~47節

佐々木良子牧師

 「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」(47節)初代教会の姿が記されており、教会の原点・伝道の基本といっても良いと思います。代々の教会は手本として教会形成に励んできました。
 「すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。」(43節)多くの不思議な業とは「主イエスの教え」と「主イエスの業」とが弟子たちによって担われたという事です。教会は主イエスの教えとキリストの業を受け継ぎ、世界に向かってイエス・キリストを証ししています。教会とは主イエスがなさっていたこと、教えられたことを実践し継承していく信仰共同体です。
 しかし、教会といえども人の集まる所には意見の違いが生じ、時には対立が起こり問題のない教会はありません。故に私たちは祈り、主が遣わされた聖霊によって、聖餐によって一つとされ、日々変えられていきます。それは全く別の存在に変えられるというのはなく、違いのある豊かさに心が開かれていくのです。人は自分の思いや考えが違うと、ともすると批判し排他的になりますが、個人的な感情の違いは、違いとして受け止められるようにさせて頂けます。
 キリスト・イエスの十字架の赦しの中で一つとされている、神の御心を求める事において一つとなれるのが教会です。神がなさった事を伝えるために、今、私たちがここに存在し、喜んで主イエスを証しする事によって一つとされ教会は建ち上がっていきます。神の御業の中にそれぞれが置かれ、そこで神に用いられながら一つとされた時、今迄、気になっていた他者との違いをも超えさせて頂き、共に認め合い賛美できるのが聖徒の交わり、教会の素晴らしさです。
 神学者で牧師であった植村正久という人は「キリストを縮小するなかれ」と、警告しました。私たちがいつの間にかイエス・キリストを自分の器に合わせて小さくしてしまうことへの恐れです。人の思いが優先して作り上げていく教会は、教会ではなくなり人を救う力はなくなってしまいます。主イエスが教え導いた事、使徒たちが行ってきた事を継承し教会形成のために私たちがここに存在しています。自分たちの思いを小さく主イエスを大きく掲げていきたいです。

鷲のように翼を張って上る

イザヤ書40章28~31節

佐々木良子牧師

 「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく歩いても疲れない。」(31節)今年、小松川教会に与えられた御言葉です。神の導きに全き信頼と期待を寄せるなら、たとえ絶望の中にあったとしても、神から人の思いを超えた喜びと希望の力が必ず与えられ、鷲の如く空を舞い上がる事ができる、という力強い神の約束です。
 40章からはバビロンに捕われの身となっていたイスラエルの民への解放のメッセージです。ヘンデルが作曲したオラトリオの「メサイヤ」は「慰めよ、慰めよ、わたしの民を」(40:1)から始まり、来るべき救い主の力強い豊かな恵みと羊飼いが羊を守るように私たちを導いてくださると、メサイヤの中でも最も優雅な心打つ旋律で歌われています(10~12節)。労苦は終わり咎は贖いの故に帳消しになったという慰めの宣言が与えられていますが、彼らは自分達のことを、神に忘れられ、訴えを無視しておられると素直に喜べませんでした。
 そこで「主に望みをおく」者への希望の約束を述べられています。人間の限界に対して、神の無限の愛、知恵、力が対比して語られています。「若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが・・・」(30節)力に満ちた者の代名詞である若者でさえ限界はあります。しかし、「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神、地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は極め難い」(28節)と神の無限を示し、この神を待ち望むように励ましています。
 「主に望みをおく」とは、自分を含めて人間には力はないと徹底して認めることです。アブラハムを導き、イサクやヤコブの困難を導いた神が私の現実に生きる道を開くために、私はあなたの立っているその場所にいる、と語っておられる神に私たちは完全に依り頼むのです。神は御業を中途で断念し放棄したりされません。直ちに応えが与えられない事もありますが、様々な事に一喜一憂せず、主の最善と全能を信じ期待しながら喜んで待つことです(詩46:9)。
 そうして「鷲のように翼を張って上る。」と神の力が与えられます。鷲は逆風を翼に当ててエネルギーとして高く大空に舞い上がります。飛行機も同じで追い風では飛ぶ事はできず、逆風を利用して飛び立っていきます。神に望みを置き人生の逆風を力として頂き、鷲の如く世界へと羽ばたく年でありたいです。