金や銀はないが

使徒言行録3章14~16節

佐々木良子牧師

 目の前に困っている人がいればお助けしたいと人は手を差し伸べます。しかしキリスト者だからこそ、否、キリスト者しかできない事があります。それは、その方がイエス・キリストにつながって生きる事ができるように導びいてさしあげる事です。神、主イエスには、人の命をすっかりと造り変えられる人間にはない力があるからです。
 「・・・男が運ばれて来た。・・・置いてもらっていたのである。」(2節)人間としての人格的な交わりもなく、施しを受けるために人を頼るしかない生まれつき足の不自由な男の事が記されています。彼はいつものように神殿の「美しい門」と言われる傍に座って施しを乞うていました。所が「ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、わたしたちを見なさい。・・・わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。」(4~8節)彼は今迄聞いたことのない言葉を耳にしたのです。
 わたしたちを見なさいとは、主イエスは地上におられる時、多くの人を癒されましたが、今も彼らの内に主イエス御自身が働いておられることを体験させるためです。目に見える形では主イエスはおられませんが、聖霊を通して彼らに働かれ、その力によって彼は癒されたのです。私たちの内にもご臨在され、その働きは継続しています。
 このように目に見える形で歩けるようにはなりましたが、大切な事は癒されて大喜びでこの男が家に帰ってこの物語が終わったという事ではありません。この後彼は、救い主であるイエス・キリストを見据えていく歩みを始めたという事です。「躍り上がって立ち、歩き出した。・・・神を賛美し・・・境内に入って行った。」(8節)彼にとってこれまでの神殿は、人から施しを受ける場でしかありませんでしたが、今度は人を頼る歩みではなく、神から恵みを受ける者へとまるごと新しく造り変えられていったのです。
 人は自分の足で人生を歩いているように思いますが、本来は救い主イエス・キリストに出逢いながら、主を賛美しつつ神の国=天の御国に向けていよいよ歩んでいくことです。主イエスは私たちの賛美を受け取る形で出逢う事を望んでおられます。私たちも金や銀はもっていませんが、それよりも勝る恵み、主イエスを指し示す者として今を歩ませて頂いています。