年末感謝礼拝 「祈り続けて、求め続けて」 

エフェソの信徒への手紙4章12~15節

佐々木良子牧師

 「ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かになるまで成長するのです。」(13節)今年は、一人一人の成長が教会の成長であると信じ祈りの内にこの御言葉が教会に与えられ導かれて参りました。2014年を振り返りながら再度、御言葉に思いを寄せて参ります。
 私たちは神の一方的な憐みにより選ばれて教会に集められています。ですから教会は人間の都合によって生まれたものではなく、イエス・キリストの救いの御業が全世界に広がり、全ての人を救いへと導くために神が建ててくださいました。神が与えようとしている救いは、私たち一人一人の個人に留まるものではなく、キリストに繋がり永遠の命の約束に生きる者として同時に教会を建て上げていく事を望んでおられます。
 そのためには単に仲が良いという事ではなく、救い主イエス・キリストとの関係において一つとなる事で、キリストによる救いの喜びと感謝の中にある聖徒の交わりによってです。キリストを愛するが故に、教会を愛し、喜んでキリストに仕えて教会を建て上げていきます(14~16節)。ですから、教会を建て上げていかなくてはならない、という努力ではなく、私たちの内側から溢れてくる感謝の形として、神の愛の結晶として教会は建てあがっていきます。今年1年間も教会の皆さまの心からのご奉仕によって教会の業が為されてきた事は主なる神が喜んでおられる事でしょう。
 この手紙を記したパウロという伝道者は牢獄の中にあっても神を「賛美」し、キリストを証し、最期まで喜びに溢れて伝道しました。信仰者はどのような過酷な状況にあっても、目の前にいる人がこの私に何をしたのかではなく「神がこの私に何をしてくださったか」という事に向き合い、神を褒め称えて生きる者です。このように信仰が成長するとは、何か立派な事ができるようになって人の役に立つかという事ではなく、イエス・キリストの十字架と復活の恵みに感謝し、神の愛に喜んでお応えしてくかという事です。
 教会がキリストの体として、一人の成熟した人間の人格を現すように、神の愛を知っている私たちも、新しい年も更にキリストの満ち溢れる豊かな教会として成長を目指して歩んで参りたいです。

クリスマス礼拝 「神我々と共にいる」

マタイによる福音書1章18~28節

佐々木良子牧師

 全人類の罪を救うためにこの世にお生まれになったイエスさまのご降誕をお祝いするのがクリスマスです。その背景には、主なる神から人間の常識からは受け入れられないような無謀な課題をマリアとヨセフは突き付けられました。しかし、その先には人間の知識、経験、常識を超えた所にある思いもよらない祝福と恵みが準備されていました。神を信じて委ねる事のできる者に与えられる豊かさと確かさです。
 マリアは結婚を前に突如妊娠していることを告げられました。「どうして、そのようなことがありえましょうか・・・」(ルカ1:34)ヨセフは、自分の相手が知らない所で妊娠したと聞かされ、「夫ヨセフは正しい人であったので・・・ひそかに縁を切ろうと決心した。」(19節)と記されています。当時、結婚をしていない者が妊娠するという事は姦淫の罪として死刑となる出来事でした。身に覚えのない二人は到底受け入れられません。
 ヨセフは「正しい人」とありますが、人は自分の正しさだけでは乗り越えられない、解決できない事が人生に起きてきます。そのような時私たち人間が出来る最大の事は、明日を導かれる神を信じて飛び込んでいくことです。マリアもヨセフも様々な不安恐れはありましたが、最後は信仰をもって一歩踏み出したのです。信仰とは神の招きに応えることです。ではその根拠はどこにあるのでしょうか。
 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ぶ。この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」(23節)これからあなたたちには神が共におられる人生が与えられるから大丈夫だという事です。「インマーヌ」とは、「わたしたちとともに」という意味で、「エル」とは、「神」がという意味です。私たちと共にいてくださる神が招いてくださる世界は、たとえそれが試練であったとしても、どんな時にも見捨てず寄り添いながら一緒にその世界を切り拓いてくださいます。彼らはこれから先、どのように導かれるかは分からないけれども、全き信頼をもって身を委ねました。
 私たちも自分の思いと経験では解決できない事に遭遇します。しかし、人間の限界を超えた所にある神の力、自分にない確かさが神にあります。信仰をもって未知の世界への扉を開けて、新しい年も神の無限の力に期待したいです。

アドベント第三主日礼拝 「本気のクリスマス」

ヨハネによる福音書1章1~14節

佐々木良子牧師

 神は罪の暗闇の中にいる人類に救いを与えるために、遥か2014年前にベツレヘムの町にイエス・キリストをお遣わしになりました。クリスマスの出来事です。クリスマスはイエスさまがこの私に与えてくださった多くの恵みを覚え、心から感謝してご降誕をお祝いするものです。
 その出来事が記されています。「初めに言があった。言は神と共にあった・・・」(1節)「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であった、恵みと真理に満ちていた。」(14節)「言」とは元々「肉」という言葉で、イエス・キリストは私たちと同じ肉体をもって人となってお生まれになりました。仮のお姿で人間になられたのではなく100%人となられました。では神であられる事をお辞めになったかというと、そうではなく100%神であり続けられたのです。この出来事は人間の常識では考えられない事ですが、これがイエスさまのご降誕の事実です。
 神と全く等しい方で、完全に人間になられた神が、私たちと共に生活をされ、人間が経験する全ての喜び、悲しみや痛みも深く味わわれました。そして最期は十字架にお架かりなって私たちの罪を赦してくださり、復活されて私たちの真の命となって、人間に光を照らし続けてくださっています。
 更に「・・・自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」(12節)と、自分の事をどんなに醜く惨めな人間だと思っていても、イエスさまを信じる人は、無条件で神の子として天国まで運ぶ約束をしておられます。しかし、この世の人々は「自分が」と、自分の思いを第一にして自分の事で精一杯でこの恵みを受け入れないのです(11節)。
 クリスマスを本気でお祝いしたいと思うなら、自分で自分を救う事はできないという無力さを先ず認める事です。そして私たちの日常は「あの人が、この人が・・・」と、人との関係で感情が先立ってしまうものですが、神がこの私に何をしてくださったかと、視点を神に中心に置き換える時でもあります。そうした時、自ずと神の愛に応えたいという思いに駆られるものです。「神の求めえるいけにえは打ち砕かれた霊、打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは、侮られません」(イザヤ書51:19)どんなプレゼントよりも神は打ち砕かれた私の心を喜んで受け取ってくださいます。本気のクリスマスを考えたいです。

アドベント第二主日礼拝 「わたしたちを待たれるイエスさま」

イザヤ書30章18~20節

佐々木牧師

 預言者イザヤが生きていた時代はユダヤの国は北と南に分裂し、大国アッシリアの攻撃にさらされていました。ユダの指導者たちは、脅威から逃れようと、神を信頼せずに大国であるエジプトに貢物を運んで同盟を結ぼうとしましたが失敗に終わりました。「・・・お前たちは、立ち帰って、静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力があると。しかし、お前たちはそれを望まなかった・・・」(15節)彼らに待っていたのは神からの裁きでした。 
それ故神はそのまま見離されたかというと、そうではなく「それゆえ、主は恵みを与えようとして、あなたたちを待ち、それゆえ、主は憐れみを与えようとして、立ち上がられる。まことに、主は正義の神。なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は。」(18節)と、憐みが記されています。
 「待つ」とは、単に歓迎しておられるというものではなく、我が子を待ちわびる親心で探し求めておられます。神の民が悔い改めた後に与えようとする恵みをいつ与えようかと、忍耐強く待っておられます。神は正しいお方ですから、罪を犯した人間を「まあ、いいか」と適当に始末する事はなさいません。罪は罪として裁かれますが、裁きと同時に憐みと忍耐をもって、私たちが立ち帰る事を待ち続けておられ、その時が来たら直ちに立ち上がろうと構えておられるのです。それが神の愛です。神の願いは全ての人が滅びないように救い、大いなる祝福をお与えになる事です。その実現のために神の御子を人としてこの世に送ってくださったのがクリスマスの出来事です。
 ややもすると信仰生活は、神に対する待ち望みばかりで神からの答えを待つ、というように人間側の受け身のように思いますが、神の側でも私たちを待っておられます。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をする」(ヨハネ黙示録3:20)戸を叩くキリストのお姿をウイリアム・ホールマン・ハントが描いており、キリストが立っている側にはドアノブがありません。戸は人の心を現しています。内側から心の戸を開けない限り、主イエスは入ってこられませんからキリストの救いは実現しないという象徴的な絵です。戸口の外から暗闇の中で呻いている私たちに、声を聞くだけではなく戸を開けるように忍耐を待って立ち続けておられます。