アドベント第二主日礼拝 「わたしたちを待たれるイエスさま」

イザヤ書30章18~20節

佐々木牧師

 預言者イザヤが生きていた時代はユダヤの国は北と南に分裂し、大国アッシリアの攻撃にさらされていました。ユダの指導者たちは、脅威から逃れようと、神を信頼せずに大国であるエジプトに貢物を運んで同盟を結ぼうとしましたが失敗に終わりました。「・・・お前たちは、立ち帰って、静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力があると。しかし、お前たちはそれを望まなかった・・・」(15節)彼らに待っていたのは神からの裁きでした。 
それ故神はそのまま見離されたかというと、そうではなく「それゆえ、主は恵みを与えようとして、あなたたちを待ち、それゆえ、主は憐れみを与えようとして、立ち上がられる。まことに、主は正義の神。なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は。」(18節)と、憐みが記されています。
 「待つ」とは、単に歓迎しておられるというものではなく、我が子を待ちわびる親心で探し求めておられます。神の民が悔い改めた後に与えようとする恵みをいつ与えようかと、忍耐強く待っておられます。神は正しいお方ですから、罪を犯した人間を「まあ、いいか」と適当に始末する事はなさいません。罪は罪として裁かれますが、裁きと同時に憐みと忍耐をもって、私たちが立ち帰る事を待ち続けておられ、その時が来たら直ちに立ち上がろうと構えておられるのです。それが神の愛です。神の願いは全ての人が滅びないように救い、大いなる祝福をお与えになる事です。その実現のために神の御子を人としてこの世に送ってくださったのがクリスマスの出来事です。
 ややもすると信仰生活は、神に対する待ち望みばかりで神からの答えを待つ、というように人間側の受け身のように思いますが、神の側でも私たちを待っておられます。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をする」(ヨハネ黙示録3:20)戸を叩くキリストのお姿をウイリアム・ホールマン・ハントが描いており、キリストが立っている側にはドアノブがありません。戸は人の心を現しています。内側から心の戸を開けない限り、主イエスは入ってこられませんからキリストの救いは実現しないという象徴的な絵です。戸口の外から暗闇の中で呻いている私たちに、声を聞くだけではなく戸を開けるように忍耐を待って立ち続けておられます。