アドベント第三主日礼拝 「本気のクリスマス」

ヨハネによる福音書1章1~14節

佐々木良子牧師

 神は罪の暗闇の中にいる人類に救いを与えるために、遥か2014年前にベツレヘムの町にイエス・キリストをお遣わしになりました。クリスマスの出来事です。クリスマスはイエスさまがこの私に与えてくださった多くの恵みを覚え、心から感謝してご降誕をお祝いするものです。
 その出来事が記されています。「初めに言があった。言は神と共にあった・・・」(1節)「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であった、恵みと真理に満ちていた。」(14節)「言」とは元々「肉」という言葉で、イエス・キリストは私たちと同じ肉体をもって人となってお生まれになりました。仮のお姿で人間になられたのではなく100%人となられました。では神であられる事をお辞めになったかというと、そうではなく100%神であり続けられたのです。この出来事は人間の常識では考えられない事ですが、これがイエスさまのご降誕の事実です。
 神と全く等しい方で、完全に人間になられた神が、私たちと共に生活をされ、人間が経験する全ての喜び、悲しみや痛みも深く味わわれました。そして最期は十字架にお架かりなって私たちの罪を赦してくださり、復活されて私たちの真の命となって、人間に光を照らし続けてくださっています。
 更に「・・・自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」(12節)と、自分の事をどんなに醜く惨めな人間だと思っていても、イエスさまを信じる人は、無条件で神の子として天国まで運ぶ約束をしておられます。しかし、この世の人々は「自分が」と、自分の思いを第一にして自分の事で精一杯でこの恵みを受け入れないのです(11節)。
 クリスマスを本気でお祝いしたいと思うなら、自分で自分を救う事はできないという無力さを先ず認める事です。そして私たちの日常は「あの人が、この人が・・・」と、人との関係で感情が先立ってしまうものですが、神がこの私に何をしてくださったかと、視点を神に中心に置き換える時でもあります。そうした時、自ずと神の愛に応えたいという思いに駆られるものです。「神の求めえるいけにえは打ち砕かれた霊、打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは、侮られません」(イザヤ書51:19)どんなプレゼントよりも神は打ち砕かれた私の心を喜んで受け取ってくださいます。本気のクリスマスを考えたいです。