アドベント第一主日礼拝 「その独り子、イエス・キリスト」

ヨハネによる福音書3章16~18節

佐々木良子牧師
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(16節)クリスマスの出来事を最もよく言い表している聖書の言葉と言ってよいと思います。宗教改革者マルチン・ルターはこの一節だけで十分にひとつの福音書だと言っています。神の独り子イエス・キリストによって神の愛が現された正に福音、キリスト教の中心真理です。
 旧約聖書には神に愛されているにも拘らず、神に背いたイスラエルの民の苦難の歴史が繰り返し記されています。神はそのような頑なで憐れな人間の為に、クリスマスにイエス・キリストをこの世に送ってくださいました。
 独り子をお与えになった目的はたった一つ、十字架につけるためです。神を神とせず、自分勝手に欲望のままに罪の中に生き続けている人間を救い出すために、最愛の主イエスを差し替えてまで、私たちを愛してくださっております。神ご自身の全てを与えてくださったと同じ事です。神だから余裕があっという訳ではありません。神ご自身が身を切られる程の断腸の思いだったろうと想像できます。十字架は神の限りない愛の形です。「一人も滅びないで、永遠の命を得る」ことが神の御心だからです。
 ヨハネによる福音書は「命」という言葉と同時に「裁く」という厳しい言葉も多く記されています。しかしここで語られている裁きとは、信じないと何か罰が当たるとか、呪われるという事ではありません。そもそも私たちは、アダムとエバが神に背き罪を犯したが為に、裁きとして全ての人間は「死」を免れない者となりました(創世記2:17)。私たちは生まれたと同時に罪の裁きの中に入れられています。信じないと言う事は、今の生活をそのまま続けるということ、つまり裁きの中に留まり続ける、死んで終りの人生を歩むという事です。神はその事を悲しまれ罪から救い出して永遠の命を与えたいと心から願っておられます。やがてこの命が朽ちても、主イエスを信じれば天国で新しい命を受けると、神は約束してくださっております。十字架を信じ、神の愛を受け入れる人々は新しい人生を歩み始めます。神の究極の愛を受け取るようにと願っておられます。神の御心は「一人も滅びない」事と知り、喜びと感謝をもって受け入れる人、信じる人は本当の意味で生きる者となります。

神の恵みに養われて

収穫感謝礼拝
出エジプト記16章12~18節

佐々木良子牧師

 私たち人間がどんなに身勝手でも、神の愛は変わりません。人間の不平・不満・憎しみをも超える神の愛が私たちに注がれています。神だからこの愛を貫き通すことができるのです。「どうか、主が、あなたがたに神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせてくださるように」(テサロニケ 一 3:5)と、パウロが祈ったように、私たちも悟る者となるように祈るものでありたいです。
 イスラエルの民は神に従わなかった為に、エジプトで奴隷の身となり鞭打たれ厳しい苦役の下に暮らしていました。しかし、神の憐みにより予定されていた70年より早く解放され自由の身となったのです。エジプトを脱出した後、神は乳と蜜の流れる約束の地、カナンへと彼らを導いて行かれました。
 しかし、16章には脱出する事ができた感謝と喜びの言葉は一言もなく、何と「不平」という文字で埋め尽くされています。神は、昼は雲の柱・夜は火の柱となってイスラエルの民を守り(13:21~22)、奇跡を起こし(14~15章)、飢えていた時には必要を与えてくださった(15~16章)、にも拘らず、神の恵みに養われている事をすっかり忘れ、憎んでさえいるのです(16:3)。
 そのような忘恩の罪を繰り返す者でも尚、「わたしは、イスラエルの人々の不平を聞いた・・・わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる。」(12節)と、どこまでも見捨てる事なく愛と忍耐を尽くして神の愛を示そうとしておられます。「・・・多く集めた者も余ることなく、少なく集めた者も足りないことなく、それぞれが必要な分を集めた」(18節)とうに見捨てられてもよい恩知らずな者にも拘らず、一人一人に見合った必要な恵みを既に与えられています。
 「主の慈しみは決して絶えない。主の憐みは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。あなたの真実はそれほど深い」(哀歌3:22~23)これが神の本質です。「慈しみ・憐み・真実」この三つの言葉が一つとなって実現したのが、イエス・キリストの十字架の出来事です。それは十字架に示された神の愛といえます。どんなに私たちが恩知らずな者であっても、神の愛が理解できなくても、神は永遠に変わる事はありません。神の愛の陰にはキリストの忍耐が隠されているからです。罪びとを深く憐れんで救おうとしてくださる忍耐です。この愛を知った者が神に感謝する人生へと変えて頂けるのです。

全ての人に与えられた約束

使徒言行録2章36~42節

佐々木良子牧師

 「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」(36節)ペトロが語った初めの説教の結論です。人々は目覚め、これから自分たちはどうしたらよいかと質問しました。ペトロは「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」(38節)と、答えた所から本日の箇所が始まります。「悔い改め」と「洗礼」について見て参ります。
 「悔い改め」とは、これまでの自分を反省し良い人間になるよう努力することのように思えますが、原語のギリシャ語「メタノイア」とは、本来「判断の筋道を変える・視点を移す」という意味です。そもそも「罪」とは、神の方を向いていないことをいいます。神を避けて、神から遠く離れて生きてきた人が、180度方向転換して、神に立ち帰り神と共に人生を歩き出すことですが悔い改めです。自分を第一としていた者が神に顔を向けていくならば、その時から神の恵みが注がれる人生へと変えられていきます。
 「主を尋ね求めよ、見出しうるときに。呼び求めよ、近くいますうちに・・・主に立ち返るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる。」(イザヤ55:6~7)四苦八苦しながら自力で生きる私たちを憐れみ、その御許に帰るように招き続けてくださいます。子どもが家に帰るように、私たちは神の元に帰る場所が既に用意されています。いつの日も待っていてくださる神がおられます。これが私たちの励ましであり慰めです。
 「洗礼」とは、これまでの人生を頑張ってもう一度やり直す事ではありません。どんなに頑張っても同じ轍を踏むだけです。悔い改め=神の方向に向きを変え、洗礼を受ける事により罪びとの私ではなくイエス・キリストの命へとまるごと造り変えて頂けます。神の愛と主イエスの十字架が、この私を新しく生まれ変わらせてくださいます。罪の赦しは自分で獲得するものではなく、只、神の恵みにより与えられるものです。今迄の廻りの状況は何一つ変わらなくても、聖霊なる神の働きによって、その人の全存在と生き方、生活そのものの価値感が全く違ってきます。これが全ての人に与えられた恵みで、これに応えた人々が教会を生み出していき(41節)、私たちの今の教会が存在しています。

私は決して動揺しない

使徒言行録2章22~37節

佐々木良子牧師

 ペトロが最初に語った説教は、神が主イエスを通して私たちにしてくださった救いの出来事です。「しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。」(24節)教会の最初の一歩は、主イエスの十字架と復活を宣べ伝える事から始まり、2000年以上経った今も国、時代、年齢を超えて永遠に変わる事のない教会の教えの中心です。世界中の教会で語られている事は倫理・道徳的な教えではなく「福音」、つまり罪人である私たちがイエス・キリストの十字架によって赦され、復活の命に生かされているという救いの言葉です。
 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネ11:25,26)死んでも生きるとは不思議な言葉ですが、主イエスの十字架は私の罪の為と信じる者は罪赦され、肉体が朽ちても天の御国にて、主イエスが甦られたように復活の体を頂いて生きるのです(コリント一15:40)。信仰は信じて平安が与えられた、という単なる心の問題に留まるだけではなく、主イエスの命そのものを頂いており、どのような状況でも決して変わることのない救いの実体そのものです。
 主イエスの復活に際してペトロは旧約聖書の詩編16:8~11を引用しています。この詩編はダビデ自身のことを語っていますが、キリストをも預言しています。「わたしはいつも、目の前に主を見ていた。主が私の右におられるので、わたしは決して動揺しない・・・あなたの聖なるものを朽ち果てるままにしておかれない。あなたは、命に至る道をわたしに示し・・・」どのような苦難があっても永遠に変わる事のない神の約束を信じる者の確信です。ダビデ自身も神と共に生き、神の御前に歩みました。息子であるアブサロムに命を狙われようとも祈りの内に平安を得ました(詩編3篇)。主イエスは十字架にお架かりになる直前、「・・・わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(ルカ22:42)と、最後の祈りをささげ、神の前に立ち続け復活の命を私たちに与えてくださいました。自分の力ではどうにもならない事があるかもしれませんが、この救いに与る者とされていることを喜び感謝できるのです。

神の言葉はとこしえに

イザヤ書40章1~11節

佐々木良子牧師

 厳しいと思っていた神の言葉が、どん底でわたしの力・支えとなることを知る時があります。暗闇だからこそ聞ける神の言葉があるのです。
 人は慰められる事のない悲しみや、様々な痛みを持っています。しかし、私たちが諦めても神は諦められません。神の言葉はそこを目指して語られます。暗闇であることの悲しさを経験した者だからこそ、そこに照らしてくださる神の言葉が救いであることを知り、心から有難いと心に染み入るのです。
 イスラエルの民は神に背き、敵国のバビロンに捕われの身となっていました。長い捕囚の期間は終わりやっと故郷に帰れる時が来るという時に、イザヤという人物が解放の喜びを告げる預言者として立てられました(1~2節)。しかし、希望を失っていた捕囚の民は素直に喜べる状況ではありませんでした。イザヤ自身も絶望し、又、希望を失っており、心を閉ざしている人々に語るべき言葉をもっていないと神に反問します。
 「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」(8節)草花のように人も弱い存在ですが、神の言葉には枯れ果てていく世界を再び創造する力があると神は仰せになります。「・・・神の言葉はとこしえに立つ」と、罪を犯し背く人間であるにも拘らず、私たち人間を愛し抜かれ全てを赦してくださった神の約束の救いの言葉は「とこしえに立ち続ける」のです。「良い知らせ」(9節)とは、神が暗闇の現実を変えてくださる救いの言葉=福音です。絶望していた彼が立ち上がることができたように、立ちあがれなくなっている人の顔を再び輝かせる言葉、それが神の言葉です。
 「見よ、あなたたちの神、見よ、主なる神。・・・見よ、主のかち得たものは主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」(10~11節)敗北の人生ではなく勝利の人生は、神は小羊をふところに抱くようにして、私たちの全存在を抱きしめ受け入れてくださり、羊飼いが小羊を安心させてその母のところに導くように、私たちの新しい人生を導いてくださいます。小羊として懐に抱くその救いは、豊かに力強い力で支えてくださるのです。「わたしたちの神の言葉はとこしえに立ち続ける」という神の言葉の変わらない約束が、私たちに朽ちないしぼむことのない命与えてくださいます。この呼びかけを聞かせて頂く私たちは幸いです。