神の恵みに養われて

収穫感謝礼拝
出エジプト記16章12~18節

佐々木良子牧師

 私たち人間がどんなに身勝手でも、神の愛は変わりません。人間の不平・不満・憎しみをも超える神の愛が私たちに注がれています。神だからこの愛を貫き通すことができるのです。「どうか、主が、あなたがたに神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせてくださるように」(テサロニケ 一 3:5)と、パウロが祈ったように、私たちも悟る者となるように祈るものでありたいです。
 イスラエルの民は神に従わなかった為に、エジプトで奴隷の身となり鞭打たれ厳しい苦役の下に暮らしていました。しかし、神の憐みにより予定されていた70年より早く解放され自由の身となったのです。エジプトを脱出した後、神は乳と蜜の流れる約束の地、カナンへと彼らを導いて行かれました。
 しかし、16章には脱出する事ができた感謝と喜びの言葉は一言もなく、何と「不平」という文字で埋め尽くされています。神は、昼は雲の柱・夜は火の柱となってイスラエルの民を守り(13:21~22)、奇跡を起こし(14~15章)、飢えていた時には必要を与えてくださった(15~16章)、にも拘らず、神の恵みに養われている事をすっかり忘れ、憎んでさえいるのです(16:3)。
 そのような忘恩の罪を繰り返す者でも尚、「わたしは、イスラエルの人々の不平を聞いた・・・わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる。」(12節)と、どこまでも見捨てる事なく愛と忍耐を尽くして神の愛を示そうとしておられます。「・・・多く集めた者も余ることなく、少なく集めた者も足りないことなく、それぞれが必要な分を集めた」(18節)とうに見捨てられてもよい恩知らずな者にも拘らず、一人一人に見合った必要な恵みを既に与えられています。
 「主の慈しみは決して絶えない。主の憐みは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。あなたの真実はそれほど深い」(哀歌3:22~23)これが神の本質です。「慈しみ・憐み・真実」この三つの言葉が一つとなって実現したのが、イエス・キリストの十字架の出来事です。それは十字架に示された神の愛といえます。どんなに私たちが恩知らずな者であっても、神の愛が理解できなくても、神は永遠に変わる事はありません。神の愛の陰にはキリストの忍耐が隠されているからです。罪びとを深く憐れんで救おうとしてくださる忍耐です。この愛を知った者が神に感謝する人生へと変えて頂けるのです。