神の言葉はとこしえに

イザヤ書40章1~11節

佐々木良子牧師

 厳しいと思っていた神の言葉が、どん底でわたしの力・支えとなることを知る時があります。暗闇だからこそ聞ける神の言葉があるのです。
 人は慰められる事のない悲しみや、様々な痛みを持っています。しかし、私たちが諦めても神は諦められません。神の言葉はそこを目指して語られます。暗闇であることの悲しさを経験した者だからこそ、そこに照らしてくださる神の言葉が救いであることを知り、心から有難いと心に染み入るのです。
 イスラエルの民は神に背き、敵国のバビロンに捕われの身となっていました。長い捕囚の期間は終わりやっと故郷に帰れる時が来るという時に、イザヤという人物が解放の喜びを告げる預言者として立てられました(1~2節)。しかし、希望を失っていた捕囚の民は素直に喜べる状況ではありませんでした。イザヤ自身も絶望し、又、希望を失っており、心を閉ざしている人々に語るべき言葉をもっていないと神に反問します。
 「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」(8節)草花のように人も弱い存在ですが、神の言葉には枯れ果てていく世界を再び創造する力があると神は仰せになります。「・・・神の言葉はとこしえに立つ」と、罪を犯し背く人間であるにも拘らず、私たち人間を愛し抜かれ全てを赦してくださった神の約束の救いの言葉は「とこしえに立ち続ける」のです。「良い知らせ」(9節)とは、神が暗闇の現実を変えてくださる救いの言葉=福音です。絶望していた彼が立ち上がることができたように、立ちあがれなくなっている人の顔を再び輝かせる言葉、それが神の言葉です。
 「見よ、あなたたちの神、見よ、主なる神。・・・見よ、主のかち得たものは主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」(10~11節)敗北の人生ではなく勝利の人生は、神は小羊をふところに抱くようにして、私たちの全存在を抱きしめ受け入れてくださり、羊飼いが小羊を安心させてその母のところに導くように、私たちの新しい人生を導いてくださいます。小羊として懐に抱くその救いは、豊かに力強い力で支えてくださるのです。「わたしたちの神の言葉はとこしえに立ち続ける」という神の言葉の変わらない約束が、私たちに朽ちないしぼむことのない命与えてくださいます。この呼びかけを聞かせて頂く私たちは幸いです。