聖書の言葉が実現するため

マルコによる福音書14章43~52節

佐々木良子牧師

 人は一度の過ちにより取り返しがつかないことがあると思います。しかし、神は私達を忘れたり、見捨てたりはされません。それどころか「見よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻みつける」(イザヤ49:16)と、愛してくださっております。主イエスがこの世にこられたのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招いて悔い改めさせるためと、自分に託された使命を神の御心のままに為すために「・・・これは、聖書の言葉が実現するためである。」(49節)と、自ら十字架に引き渡されていきます。
 裏切るユダと向き合い、尚、裏切りのための接吻と分かっていても自らその接吻を受けられ、更に剣や棒をもって一斉に捕えられながらその暴力にも身を委ねられました。どのような不当な仕打ちに遭遇しようとも「・・・わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(14:36)と、究極の祈りを根底とした十字架への覚悟は不変です。故に私達は、永遠に変わる事のないイエス・キリストを心から信頼して全てをお委ねして行けるのです。
 72年前、6月26日の主日、私達の属するホーリネスの群が全国一斉に国家から不当な弾圧を受け、獄中で7名が命を落としました。しかし、どのような問題下にあっても、教会の進む道は、キリストの十字架と復活への信仰を基いとし、主イエスのように信仰を貫き通して今の教会が存続しています。弾圧に遭遇した人々が見ていたのは、怒り狂う者たちではなく、十字架の主イエスの御姿であったと思います。キリストの御足の跡を辿り、イエス・キリストを証ししました。目前の迫害者に目を向けるなら、悪の思いのままに支配され破局の道へと歩む事になります。キリスト教会の最初の殉教者ステファノが見ていたのも目前の許せない群衆ではなく、主イエスでした。(使徒7:54~)弱っている者を強くするのは、永遠に変わる事なく神に忠誠を果たし、私達の生と死を御手に納めておられる救い主イエス・キリストの十字架のお姿です。
 「一人の若者が・・・裸で逃げてしまった。」(52節)と、この福音書を書いたマルコ自身の裏切りの姿が描かれています。自分の失敗を敢えて記す事により、十字架によって罪赦され救われた証しをしたかったのではないでしょうか。どのような状況であろうと聖書の御言葉が実現するために、毅然と立ち向かっていく主イエスを見続けるマルコの悔い改めと感謝の思いが伝わってきます。