へんてこな裁判にかけられるイエス様

マルコによる福音書14章53~65節

佐々木良子牧師

 本来なら裁かれる側の人間が、裁かれるはずのない神の御子である主イエスを「死刑にするため」に、血眼になって「不利な偽証」を探しまくって裁いている宗教学者たちがいます(55~63節)。普段彼らは反目し合っていますが、これぞと一致団結して主イエスを貶め、得意げに裁き自分達は勝利したと思い違いをしています。又、主イエスに唾を吐きかけ、こぶしで殴りつけ、平手で打つ者たちの暗闇の世界にいる人々が映し出されています(65節)。
 「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。しかし、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった。・・・そこで重ねて大祭司は尋ね、お前はほむべき方の子、メシアなのか。イエスは言われた。そうです。・・・」(60~62節)人は自分を守ろうとする時多弁になりますが、主イエスは黙していました。そして、ご自身をメシア=救い主と認めるなら、神を冒涜する者とみなされ、死刑は決定的です。しかし、究極の場面では口を開き、はっきりと「そうです」と認められ、自ら死刑を受けるべき道を歩まれました。それは、旧約の時代からの預言の成就で、主イエス御自身も既に預言しておられました(8:31,9:31,10:34)。全てが神の御手の中にある事でした。
 今、預言が実現している最中、ご自身を断罪している彼らを、哀れみ悲しく思っている主イエスの心中を、暗闇の中にいる者たちには知る由もありません。自分の感覚で人を裁いている時、主イエスの悲しい御顔は見えないのです。
 「あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。・・・」(ヨハネ8:15~16節)私達は簡単に人のことを裁き、どれ程人を傷つけ、悲しませるは分からないような者です。しかし、主イエスは心に悪魔が宿るような醜い人間の全てを知り尽くした上で、私達を裁かないのです。人を、神を、裁いて得意になっている者たちのために、黙して自ら命を献げてくださり、愛を注ぎ尽くして佇んでおられます。このお姿がキリストの真実、神の正しさ・愛です。目の前で主イエスを断罪する人間を黙って、キリストの真実に結ばせようと立ち尽くしておられます。「妙にも尊き、み慈しみや、求めず知らず、過ごしうちに、主はまず我を、認めたまえり」(讃美歌249番)「信じるとは、神の愛を認める事で、信じないとは自分に対する神の御心を拒む事です。信じ続ける者でありたいです。