天地は滅びるが、わたしの言葉は滅びない

マルコによる福音書13章28~31節

 佐々木良子牧師

 「はっきり言っておく、これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(30~31節)
 この世の終り・主イエスが再びおいでになる前には、私達の身に様々な苦難が襲いかかり、やがてこの天地も滅びると主イエスは13章において幾度となく仰せになります。
 「この世の終りの時ならずとも、今、私達が経験している様々な苦難の中で私達を支え生かし、希望を与えるものは、決して滅びることのない「神の御言葉」です。代々の教会はいつの時代も決して滅びることのないイエス・キリストの御言葉に生かされてきました。立ち帰るべき所は、主イエスの御言葉でした。そして、今も教会を建て上げ、一人一人の信仰を励まし、慰め、成長させてくださっております。
 「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く・・・」(ヘブライ4:12)神の御言葉は、力=エネルギーとしての力で、私達の内に働く神の力を意味します。私達罪びとへの愛の限りを注ぎ尽くされたキリストの十字架の真実に結ばれ、決して滅びることのない真実な神の御言葉を生活の土台の針として固定させる事が、私達のエネルギーの元とさせて頂けます。
 「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて繁栄をもたらす。」(詩編1:1~6)私達はかつて神に逆うもので、その姿は風に吹き飛ばされるもみ殻のようなものでした。このような傲慢な私達のために、主イエスは十字架にお架かりになられました。この御方を心から愛し、御言葉を思い巡らし、噛みしめ、心に留めて行くとき、神が私達を流れのほとりに植えてくださり、実を結ばせてくださいます。自分の足で立つのではなく、神の御言葉によって立たせて頂けるのです。
 夏の近さがいちじくの木によって分かるように、主イエスが再びおいでになる時の前兆は、確かに苦難が襲いかかってきますが、冬のように全てが枯れてなくなるようなものではなく、「夏」のように青々と葉が出てくるような喜びと希望に向かっていくものです。決して滅びないイエス・キリストの御言葉に身を寄せ、御言葉に生かされ、御言葉を昼も夜も口ずさむものでありたいです。

我らの本国は天にある

フィリピの信徒への手紙3章17節~4章1節

世の人々は私たちキリスト者の姿を通してキリストを見て、はじめて神を知ることが出来る。しかし私たちの信仰や伝道が常に健全とは限らない。果たしてキリスト者・説教者・牧師・教会の本来「あるべき姿」とは一体何か。
【わたしに倣う者となりなさい】フィリピ教会に侵入した「敵対者」は「キリストの十字架」の完全性を否定し、律法遵守と割礼を要求した。フィリピ教会の人々はこれに応じたが、彼らの行為は滅びに直結する致命的な過ちだった。私たちも、地上に目を奪われるならば、あっという間に神を離れてしまう。すると愚かにも「自分に好都合な歪んだ理想像」を「あるべき姿」と見做し、その酷く手狭な枠中へキリスト者や油注がれた者を神諸共押し込め、枠からはみ出る者を執拗に批判・強要・排除するようになる。しかし高慢な思いは謙虚に悔い改めねばならない。人は地上で完全な者には成れないのである。パウロも自分を完全な者だとは言っていない。むしろ「わたしに倣う者となりなさい」とは8~10節のようなパウロの「生き方、真剣な信仰生活の在り方を見倣って欲しい」との意である。
【わたしたちの本国は天にある】なんと素晴らしい信仰告白の言葉だろう!私たちキリスト者のゴールは天の御国である。私たちはそこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを待ち焦がれている。何故なら、「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる神の力によって、わたしたちの卑しい体を(御国に相応しい霊的な体に)御自分の栄光ある体と同じ形に変えて下さるからである。こうして私たちは天の御国へ帰国して父なる神を拝し、遂にこの両眼は救いの完成を見るのである。
【主によってしっかりと立つ】とは「主イエス・キリストに軸足を置き、力一杯踏ん張って主イエスの中に踏み留まる」の意である。聖書や説教や祈りを通して神との交わりの中に生きる時、私たちは神の御前に自分の心と信仰を吟味し、信仰を正すことが出来る。これこそ私たちキリスト者・説教者・牧師・教会の本来「あるべき姿」であり、私たちが救いの完成を見るその日まで、パウロ同様にゴールを目指してひたすら走り続けるために必要不可欠な極意なのである。さあ、主によってしっかりと立ち、パウロの真剣な信仰生活に倣い、救いの完成を見る日まで、天の御国を目指して、ただひたすらに走り続けよう。

その時、人々は見る

マルコによる福音書13章24~28節

 すべての歴史には終わり日があります。世の終りとは、主イエスの再臨によってこの世が終わり、神の御支配の完成による新しい世界、神の国が始まるという事です。「・・・このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る・・・」(24節以下)
 このように終りの時には、闇に閉ざされますが、主イエスのご栄光が私達を照らしてくださるので、天体の光と輝きは必要なくなるのです(ヨハネの黙示録22:5)。「・・・その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。」(ペテロⅡ3;12~13)
 再臨の時父なる神は、私達の生前の行状が記されている巻物を主イエスに渡され、全世界の人々を審かれます(ダニエル書7章)。これが所謂、最後の審判で、使徒信条で「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん」と告白している如くです。しかし、同時に救いの完成の希望の時なのです。
 世の終りには、自力で神の元に集まるのではなく、主イエスによって「集めて頂く」のです。「そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」(27節)私達は様々な不安の中にいますが、復活、永遠の命を携えて主イエスが、再びおいでくださり、救いを完成してくださる希望の中にもあります。そして、いよいよ最後に人々を呼び集めてくださるという、最初から最後まで、主イエスの恵みに生かされ、導かれ、選ばれている者として存在している私達です。
 主イエスは何度も御自身を「見なさい」促しておられます。今は肉眼では見る事ができませんから、心の眼で「霊的な目」で見ています。やがて今の時代は終わり、主イエスの栄光だけが輝く時、肉眼ではっきりと主イエスをこの目で見るようになります。ここにこそキリスト者の究極の希望です。見ずに信じてきた事が、確かなものであったことを確認する時がやってきます。神にずっと愛されていた自分、しかも、十字架の愛で愛されていた自分というものが分かって、大きな喜びに包まれるのでしょう。この目ではっきりと見る時を待ち臨みつつ、今は霊的な目で主イエスを見続けていく私達です。

気をつけていなさい

マルコによる福音書13章14~23節

 「・・・神が天地を造られた創造の初めから今までになく、今後も決してないほどの苦難が来る」(19節)世の終りの前兆について記されています。エルサレム神殿が崩壊する時がやってくるので「悟りなさい、逃げなさい、祈りなさい」と、主イエスは警告を発しておられます(14~18節)。正に現実となり40年後の紀元70年に、エルサレムは陥落しました。この時、主イエスの御言葉より、エルサレム神殿を拠り所としている大勢の人々は、焼け落ちる神殿と共に命を落としたと伝えられていいます。
 私達の生活の中でも自分は全く無力と感じ、逃げるほかない、祈るほかない、という苦しみや試練を経験します。しかし、そのような時に神の御手が確かにそこにある、という事を本日の箇所から教えられます。「主がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、主は御自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださったのである。」(20節)主はご自身が選ばれた神の民のためにその御手を動かしてくだっているのです。
 「選んだ人たちのために」という言葉がありますが、20,22,27節に3回も「選び」という事が記されています。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」(ヨハネ15:16)私達には選ばれる資格など何一つありませんが、神の御愛は何の価値もない人間を一方的に選んでくださっております。信仰とは、神が選びの民に与えるもので、その与えられた信仰は最後まで神が確実に守ってくださるのです。そして、苦難の時にその御手を動かしてくださるのです。
 戦前、戦中、戦後と日本の教会もまた時代の荒波に翻弄されてきました。国家による弾圧により致命的な打撃を与えたかに見えましが、主の御手が働かれ教会を再建復興し伝道を展開し、今日の礎があります。教会の使命は何年という時を刻む事ではなく、「終りの日に向かって」絶えず前進していく一つの群です。苦難の時に生き抜けるのは、頑強な人ではなく、そこにイエス・キリストの御手が働らいてくださると信じる人です。主イエスが最後まで私達の信仰を支え続け、救いに至らせてくださる事を信じ抜く群が教会です。私達も選ばれた者として、教会に存在しています。信仰を守る事に精一杯になりがちですが、苦難の時にどのように御手が働いてくださるかを期待する者でありたいです。

最後まで耐え忍ぶ者は救われる

マルコによる福音書13章5~13節

 本日の箇所には、弟子達の身にこれから起きる出来事が記されています。世の終りの前兆であるいくつかの出来事、そして弟子達が議会に引き渡され、会堂で鞭打たれ、総督や王たちの前にたたされる事等です。「・・・しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(13節)と主イエスは断言しております。受ける迫害は宗教的な指導者たちや国家権力者達、しかも家族などあらゆる者から、と記されているように、未来に待っている状況は非常に厳しいものでした。
 この迫害を通して証しする事となり、福音があらゆる民族に宣べ伝えられる為でした。「しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。」(10節)この事は主イエスが十字架にお架かりになると同じ位、どうしても必要な事でした。あらゆる民族の救いがかかっているからです。
 しかし、この時の弟子達は証しをし、福音を宣べ伝え、耐え忍べるような者ではありませんでした。数日後主イエスが捕えられた時には、見捨てて逃げ出したような者です、ペトロは主イエスを3度も知らないと裏切りました。「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)彼らが耐え忍ぶ事ができるように変えられたのは、主イエスの祈りです。最後まで耐え忍ぶ力は私達にあるのではなく、神によってです。主イエスが祈ってくださらなければ、神の恵みがなければ、何の力もない私達です。「主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストの交わりに招き入れられたのです。」(Ⅰコリント1:8~9)。何という憐れみと恵みでしょうか。
 語るべき言葉も同様に「・・・そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話しするのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。」(11節)と、聖霊が導いてくださいますから心配しなくても大丈夫です。ルカ21:14では、「・・・どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。」と記されています。福音宣教は神の業ですから、言葉は神ご自身が備えてくださいますから、信頼してお委ねしてけるのです。そうして耐え忍ぶ者と変えられていく事に期待する私達です。