最も大切なことは

マルコによる福音書12章28~34節

 主イエスは「神と愛すること」と「隣人を愛すること」が最も大切な律法だと仰せられました。「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません」(ヨハネの手紙一4:20)このように「愛する」とは「神と人を愛する」という事で、この二つは決して切り離すことができません。そして愛するには「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして・・・」(30節)とあります。「尽くす」とは、「すべてのすべてによって」という意味です。神と人を愛するとは、自分のすべての思いをもってイエス・キリストに向かっていきなさいと、そうそう容易い事ではありません・・・
 ここに登場する律法学者達に対して主イエスは「あなたは、神の国から遠くない」(34節)と仰せられました。「神と人を愛する」ことを完璧に理解していても実行しなければ、神の国=神の愛の御支配の下に入る事はできないという事です。私達も同じです。そもそも「隣人を自分のように愛しなさい」(31節)と命じられても、自分のことすら愛することができない私達ではないでしょうか。自分を守り、どこまで行っても自分の考えを正当化しようとする自己中心的な者で、罪深く醜い自分をよく知っているからです。
 しかし、このような私達の代わりに真実にこの私を愛してくださるイエス・キリストを神は与えてくださいましたから、慰められ生きていけるのです。
「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしは愛を知りました。」(ヨハネの手紙一3:16)十字架上で死なれた主イエスの御姿は「心を、精神を、思いを、力を尽くして」愛してくださった象徴です。この愛を真実に感謝して受けとる事ができるならば私達も神と人を心から愛する者へと変えられていきます。愛を豊かに受けた者だけが、神と人を愛することを可能にしてくださいます。神の愛の支配はそのように今も進められています。
 主イエスは神と隣人を愛することを語る前に「イスラエルよ。聞け・・・」(29節)と、先ず神の御言葉を聞く事を求めておられます。主イエスの福音を聞くこと、その内に私達を生かす「愛」が示されています。「聞く耳のある者は聞きなさい」と、主イエスは仰せられます。福音を聞く事の中で真実の愛に出逢うのです。

天使のようになる

マルコによる福音書12章18~27節

 キリスト者はこの世で命を終えた後、イエス・キリストが復活されたように復活の新しい命を頂き、天国において永遠に生きるという約束が聖書の色々な箇所に記されています。そこで私たちは様々な想像をして、結局は自分の都合の良いように、身勝手な考えをするものですが、死後の存在とその命はどのようなものかというと解明はできません。
 当時、ファリサイ派とサドカイ派と呼ばれる人々の間で、復活はあるかないか、死後の世界はあるかないか、という論争がなされていました。そのような状況でサドカイ派に属する人々が、この世の知恵で都合の良いように、自分達の正しさを証明しようとしていました。
 「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活のときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」(24~25節)と、主イエスははっきりと宣言されました。「天使のようになる」とは、この世において罪ある私たちが、死後には罪なき存在となり、神に最も近く仕える者になるという事です。このようにこの世での有様とは全く違った、かつて経験した事も、想像もつかないような新しい者にして頂けるのです。姿も性格も生き様も全て肉体の死において終わります。このように天国での新しい命は、この世と決別して全く新たに「天使のように」されますが、神の恵みと慈しみはこの世から天国まで永遠に変わる事なく、私たちを愛し続けてくださいます。
 「・・・わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。・・・」(26~27節)旧約聖書に記されている信仰の先達者は既に肉体的には死んで葬られましたが、神はその人々にも今も尚、私たちと同様に働き続けておられます。生きている時も死んだ後も父なる神は変わらずに、私たち一人一人と共におられ愛し続けてくださっております。ですから死後の事をあれこれ想像したり、悩む必要もありません。永遠に変わる事なく生きて働いておられる神を信頼し、私たちの思いを超えた所の復活の命を与えてくださるイエス・キリストにお委ねしていけば良いのです。やがてこの命を全うし、神に招かれ天使のようにさせて頂けるという宣言がなされている事は身に余るほどの光栄です。

なぜわたしを試そうとするのか

マルコによる福音書12章13~18節

 主イエスを妬む者たちが、何とか陥れたいと「神の民である私たちが、異邦人であるローマの皇帝に税金を納めることは神の掟である律法に適っているか、否か・・・神の民として相応しいか?」という愚問を突き付けました。彼らの悪巧みをすぐに見抜かれた主イエスは「なぜ、わたしを試そうとするのか・・・・皇帝のものは皇帝に、神のものは神のものに返しなさい。」(15~17節)と、仰せられた箇所です。まるでお腹をすかした人が食べ物を食べることが生理的に当然なことであって、特別に信仰的な理由づけを必要としないように、国家社会に住む私たちが、税金を納めることは社会的には当たり前の事です。
 「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。・・・」(ローマ13:1~2)「主のために、すべての人間の立てた制度に従いなさい。それが統治者としての皇帝であろうと・・・すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を恐れ、皇帝を敬いなさい。」(Ⅰペテロ2:13~17)全ての権力は神によるものであって、国家権力に対する服従が述べられています。国民としての当然の義務であって、キリスト者であろうと例外はありません。
 しかし、私たちの信仰、霊の自由は神が与えたものですから、国家の命令によってこれを奪い取られるものでは決してありません。霊の自由は誰も取り去る事はできません。「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも従属していない。 キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、だれにも従属している。」と、宗教改革者ルターの『キリスト者の自由』で展開される思想にある通りです。私たちが属する「ホーリネスの群」は、かつて国家権力の元に弾圧を受け、牧師が投獄され多くの殉教者を出すという痛ましい歴史があります。しかし、肉体とこの世の所有物は国家の支配下の中にあっても最期まで霊の自由は刑罰によって奪い去る事はできませんでした。
 
 現代では弾圧を受ける事はありませんが、社会の中で信仰者として納得いかない事に従わなくてはならない時もあります。しかし、神の霊の支配下に生きる者として恐れるものは何一つないのです。もはやその不条理に仕え、僕となる事によってキリスト者としての証しを立てていく事が霊の導きの中にある者といえるのです。これこそがキリスト者の霊にある自由です。

キリストの満ちあふれる豊かさ

エフェソの信徒への手紙4章7~16節

 「ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです」(13節)今年与えられた教会標語です。教会という存在は、イエス・キリストの救いの御業が世界中に広がり、全ての人を救いへと招く為に神がお建てになったものです。その為に神に招かれた私たちが成熟し成長することを期待されております。そうして自ずと教会も成長してきます。
 教会は単なる建物ではなくキリストの体として、一人一人が組み合わされています。そして神は私たちに賜物をお与えになり、仕える者として、奉仕する者として用いてくださっています。その中でキリストを中心として互いに欠けを補いつつ、互いに成熟させて頂き、キリストご自身を現す者とさせて存在しています。故に教会は異なった者たちが一つとなって、一人の成熟した人間となっていく場でもあります。(11~12,15~16節)。その担い手の一人として私たちが神によって選ばれている尊い存在です。何と素晴らしい事でしょう。
 このように神と人とにお仕えしていく中で、成熟していく私たちですが、自分の力や努力によってではなく、神が整えてくださいます。「・・・見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、イスラエルの家よ、お前たちはわたしの手の中にある。」(エレミヤ18:6)陶工は二つとない作品を何度も何度も練り直し磨きあげながら完成品を作っていくように、神は私たちを最高の成熟した作品となるように何度もこね直してくださいます。それはとても忍耐を要することですが、神ご自身の御手によって整えてくださいます。
 神の御手を払いのけ自分勝手に歩む私たちを見捨てずに、究極の手直しとしてご自身の独り子であるイエス・キリストを与えてくださり、とがったり、曲がったりする私たちの罪を背負って十字架へと向かわれたのです。しかも主イエスは十字架という無惨な死を乗り越えて人には出来ない復活を成し遂げられました。迎えました新しい年、私たちはこの主イエス・キリストご自身の命をも惜しまず投げ出して私たちを練り直される神の御手に、喜んで身をお任せして歩んで参りたいと思います。私たちは既にキリストの命を与えられている者ですから、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで、最高の成熟した作品とさせてくださる事に期待いたしましょう。