なぜわたしを試そうとするのか

マルコによる福音書12章13~18節

 主イエスを妬む者たちが、何とか陥れたいと「神の民である私たちが、異邦人であるローマの皇帝に税金を納めることは神の掟である律法に適っているか、否か・・・神の民として相応しいか?」という愚問を突き付けました。彼らの悪巧みをすぐに見抜かれた主イエスは「なぜ、わたしを試そうとするのか・・・・皇帝のものは皇帝に、神のものは神のものに返しなさい。」(15~17節)と、仰せられた箇所です。まるでお腹をすかした人が食べ物を食べることが生理的に当然なことであって、特別に信仰的な理由づけを必要としないように、国家社会に住む私たちが、税金を納めることは社会的には当たり前の事です。
 「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。・・・」(ローマ13:1~2)「主のために、すべての人間の立てた制度に従いなさい。それが統治者としての皇帝であろうと・・・すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を恐れ、皇帝を敬いなさい。」(Ⅰペテロ2:13~17)全ての権力は神によるものであって、国家権力に対する服従が述べられています。国民としての当然の義務であって、キリスト者であろうと例外はありません。
 しかし、私たちの信仰、霊の自由は神が与えたものですから、国家の命令によってこれを奪い取られるものでは決してありません。霊の自由は誰も取り去る事はできません。「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも従属していない。 キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、だれにも従属している。」と、宗教改革者ルターの『キリスト者の自由』で展開される思想にある通りです。私たちが属する「ホーリネスの群」は、かつて国家権力の元に弾圧を受け、牧師が投獄され多くの殉教者を出すという痛ましい歴史があります。しかし、肉体とこの世の所有物は国家の支配下の中にあっても最期まで霊の自由は刑罰によって奪い去る事はできませんでした。
 
 現代では弾圧を受ける事はありませんが、社会の中で信仰者として納得いかない事に従わなくてはならない時もあります。しかし、神の霊の支配下に生きる者として恐れるものは何一つないのです。もはやその不条理に仕え、僕となる事によってキリスト者としての証しを立てていく事が霊の導きの中にある者といえるのです。これこそがキリスト者の霊にある自由です。