喜びの教会

使徒言行録2章40~47節

 「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せされた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」(46~47節)初代教会の喜びが記されています。そこにあるのは特別な事ではなく、礼拝をお献げし、主の晩餐を記念する群の姿です。
 ペンテコステの日にペトロによって語られた説教によって、多くの人々が福音を喜び次々とクリスチャンの群に加わっていきました。そこで行った事は「使徒の教え=福音を聞く」「相互の交わり」「パンを裂くこと=聖餐式」「祈り」に熱心だったと記されています(42節)。
 福音を聞くとは、主イエスの十字架と復活の証言を聞くことです。罪は自分の力ではどうにも解決できない人生の問題ですが、主イエスが私の身代わりとなって十字架にお架かりになった事により罪から救われ、更に主イエスのご復活によって私達は天の御国へと続く永遠の命が与えられました。私達に為された最大の奇跡です。この奇跡を日々熱心に何度もお聴きすることにより、自分は罪から救われた確信がいよいよ自分のものとなり、生きる希望が与えられ喜びとなっていったのです。そうして教会は勢いよく拡大されていきました。教会の使命は歴史を刻む事ではなく、罪の赦しと復活の命の希望を宣べ伝える為に前進していく群です。このことを大切に慈しみ、喜び感謝していたのが初代教会の人々です。
 罪の救いと復活の宣言は教会でしかできない事です。教会だからこそ、大胆に宣言できるのです。目に見える希望はやがて消えていきます。「希望」はキリストの復活に基づかない限り、どのようなものであれいつしか消えてなくなります。(Ⅱコリント4:18)復活の希望こそ、私達の全ての希望の基です。
 現代の私達の教会も、世界中の教会も2000年以上変わらず同じように祈りの中に神の御業が進められています。私達の信じるイエス・キリストは十字架において死なれましたが、復活され今も生き続けて、この世界を導いておられます。「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい・・・あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」(コロサイ3:1~4)初代教会の喜びと栄光は今も続いています。

教会の誕生

使徒言行録2章1~14節

 聖霊降臨日(五旬祭)の出来事によって、主イエスの福音が誰でも分かる言葉によって、世界に宣べ伝えられるようになり教会が誕生しました。それは主イエスの約束が成就したもので、その事によって今の私達が存在しています。
 「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ・・・一同は聖霊に満たされされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話出した。。(1~4節)不思議な象徴的な出来事でしたが、重要な事は「…エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。」(1:4)と、主イエスが仰せられた約束を信じて、主イエスを信じる者が皆心一つになって集まって祈っていた事に目を留めることです。
 主イエスが弟子達に求めてほしかった事は「聖霊で満たされた」(4節)と、神の霊・聖霊に満たされることでした。臆病で失敗ばかりしていた彼らでしたが、祈って聖霊に満たされた時、彼らを通して神が行動を開始されました。神ご自身は私達が聖霊で満たされる事を求めておられ、私達を通して働かれる事を望んでおられます。「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿っている神殿・・・だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」(Ⅰコリント6:19~20)聖霊なる神は私達の内に宿り、私達の人生の失敗も成功も全てを用いてくださいます。使徒たちが一つにして一同が祈った時、このような栄光が現わされたことを記念する出来事が聖霊降臨日です。
 「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように」(ローマ15:13)聖霊の力によって不可能を可能とする力を私達の内に働かされることを保証してくださっています。教会に連なる私達一人一人が神を待ち望む生活をし、自分を捧げるなら人の理解も及ばない壮大な希望の中に入れられ、神が用いてくださいます。この事を期待して共に祈り続ける共同体が教会です。今もなお尽きない神の約束を期待して祈り求める時、神は喜んで私達を喜びの内に聖霊で満たしてくださいます。この信仰をもって共に座って祈り、聖なる畏れと喜びで満たして頂けるとは、何という恵みでしょうか。私達が祈り求める事によっていよいよ聖霊なる神の力が働らいてくださり、教会全体が神の希望の約束が全うされていきますから感謝いたします。

母に背負われて、神に背負われる

イザヤ書63章8~11節

 神と人間の関係について記されています。「彼らの苦難を常にご自分の苦難とし、御前に仕える御使いによって彼らを救い、愛と憐れみをもって彼らを贖い、昔から常に彼らを負い、彼らを担ってくださった。」(9節)母親が子どもを背負い抱っこするように、人は昔から神に背負われ、抱かれて人生を歩んでいます。誰もが母親に、そして神に抱かれ背負われて人生が始まります。
  
 「御前に仕える御使い」とは、原文では「彼の顔の使い」と記されており、単にご自分の代理として御使いを送ったというのではなく、主がご自身の憐れみの御顔を向けておられるという事が強調されています。母親は子どもが苦しむ時、自分の苦しみとして痛いほど分かります。そのように私達の苦しみを神はご自身の苦しみとして担ってくださいますから、神と私達は一つであり、人格は一体です。しかも時々ではなく、いつも「あなたのその痛みを理解しているよ」と慈しんでくださっております。ですから私達はこの世で多くの悩み、苦しみがあっても、支えられ慰められて生きていけるのです。
 「しかし、彼らは背き、主の聖なる霊を苦しめた。主はひるがえって敵となり、戦いを挑まれた。」(10節)神の愛に支えられているにも拘らず、イスラエルの民は幾度も神を裏切り反逆し、その結果バビロン捕囚という報いを受けました。自分勝手に神から離れ、罪に苦しんだ挙句に「神はどこにおられるのか」と、何度も問うています(11節)。これは私達人間の身勝手な姿でもあります。にも拘わらず、背く私達を限りない愛をもって神の子としてくださり、今も変わらずに何度も背負い直し、憐れんでくださっております。(8~9,16節)
 
 「…わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負っていこう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(46:4)神は人間を愛の対象として造ってくださった故に、私達が慈しみをすぐに忘れ、大きな顔をしたり、落ち込んだりしても天の御国に帰るまで、責任をもって任ってくださいます。これが永遠に変わる事のない神の約束です。
 「…事実、ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」(へブル2:17~18)共に苦しんでくださる神の究極的な表現は、イエス・キリストが人となってこの世においでくださった事と十字架上のキリストのお姿です。この十字架にこそ、私達の究極の慰めと励ましがあり、背負われている事を実感するのです。

神の家族

エフェソの信徒への手紙2章11~22節

 昨年階段から落ちて頚椎損傷をいたしましたが、その事の証も含めてメッセージをと佐々木先生から依頼されました。救急車で運ばれ、「頚椎損傷で、動くようになるかもしれないが、動かないままかもしれない」と言われました。東京聖書学校吉川教会、赤羽教会、ホーリネスの教会の皆様が祈ってくださいました。ところが顔も見た事のない多くのクリスチャンの皆様が僕の為に祈ってくださいました。そこで思わされのが、「神の家族」ということでした。そのことをお伝えさせていただきます。
 12節 また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。とあります。ここから①希望の無い者であった。ことを確かめます。今日の多くの日本の同胞も、罪の赦し、永遠の命の希望があることを知りません。毎日なにげに生活しているとそのことに気が付きません。どんなにこの世界で人の為に労しても、究極は死です。十字架と復活によって死に勝利された主を信じ赦された者こそ希望あるものです。
 16節 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。ここから②敵意を滅ぼされた。ことを確かめます。ユダヤ人は異邦人を「神を畏れぬ、暗愚な者達」と軽蔑し、ギリシャ人達はユダヤ人を「偏狭で頑なな民族」と馬鹿にしていました。敵意というと、そんなものは持っていないと思いますが、怒りは、自分が正しいと思うところから起こります。互いに自分の力では正しく生きる事ができないことを認め、主が十字架で互いの責めを御自分が受けて赦しを与えてくださったことを認めたお互いです。互いに赦しあい、愛し合うことが求められています。
 18節 それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。ここから③一つの霊に結ばれて、という大切なことを学びます。互いにイエス様の十字架の贖いによって赦された。互いに赦しあい、愛し合うと分かっても、主がお送りくださった聖霊様を求めましょう。神の国の命が流れ出る為に。主が、それが送られて、神の国(神の家族)が成ると約束されました。
 22節 キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。④共に建てられ広がっていくことを確認しましょう。霊の働きによってとあります。今、世界はリバイバルが始まっています。世界の教会では、宣教は「聖霊の働き」との理解がスタンダードです。身近な家族、同僚、お隣さんに聖霊様に依り頼んで神の愛を注がせていただきましょう。日本にも神の国が広がります。ハレルヤ!