「わたしの父の家には住む所がたくさんある。…行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」(ヨハネ14:2~3)イエス・キリストが再びおいでになる事=再臨が約束されています。再臨は夢物語ではなく確かに起きる事柄の預言です。再臨信仰を離れて真のキリスト教は成立せず、キリスト教の真髄であるとまで言われています。
しかし、この手紙が書かれた時代も主イエスはおいでにならず、再臨はもうない、と考えていました。現代も再臨よりも目の前の問題解決を待ち望んでいるのではないでしょうか。一方、神の視点でみるなら「一人も滅びないで皆が悔い改めるように」(9節)と、再臨を先延ばしして、全ての人がキリストの十字架を信じて天国に入ってもらいたいという神の愛と忍耐の表れです。
「主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音を立てながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。」(10節)と警告しています。仮にキリストの再臨がないなら、この世の正しい締めくくりがないままに終わり、誰も天国に入る事はできません。キリスト者だから自動的に天国に行けるのではなく、再臨の時に私達はそれぞれの行いに応じて審判を受ける事になります。
その為の準備をするように勧められています。「きずや汚れが何一つなく、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい」(14節)私達が救われたのは、傷もしみもない小羊のようなキリストの尊い血によってです。人間側が神を拒否したにも拘らず、愛し抜いて、キリストの命を与えてくださいました。信仰とは、主イエスが流されたその血潮を我が身に受け続ける事です。この身は傷や汚れだらけですが、神の前に立って求めるなら、神が清めてくださいます。再臨の主の前に立つ事ができるように、日々清められるのです。清められる事は再臨の準備の為です。
「堅固な足場を失わないように注意しなさい」(17節)堅固な足場とは、天の御国への希望の確信です。希望を持ち続ける事、確信を持ち続ける事、諦めない信仰です。人生はこの世では終りではありません。今は暗い時代に生きていますが、そこを生き抜ける人、堅固な足場を失わない人とは、頑強な人ではなく、キリストの再臨を信じて希望を持ち続ける人です。再臨は終わりではなく、最終結末に向かう希望の始まりです。これを待ち望むのです。
月: 2012年7月
死んでも生きる
ルカによる福音書5章12~26節
「人よ、あなたの罪は赦された」(20節)今も私達に宣言してくださっています。自分の罪と向き合い苦しんでいる人にとっては、何にも勝る恵みであり、最大の癒しのお言葉です。しかし、人の罪の問題は神の前に明らかであっても人間の目には隠されていますので、罪を自覚し赦しを求めるよりも、目に見える数々の問題、病の癒し等を熱心に求めるのが私達の現状といえます。癒される事を願い祈るのは当然で神からの大きな恵みですが、それだけに気を取られて罪の赦しの恵みを見失うなら、主イエスの教えと権威の意味を悟らない者となってしまいます(21節)。
週毎の礼拝で「…罪の赦し、永遠の命を信ず」と、使徒信条を告白しています。このような罪びとである私でも赦される事を信じますと、告白する事を許されている私達です。「…主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。主はお前の罪をことごとく赦し、病をすべて癒し、命を墓から贖い出してくださる」(詩編103:1~3)緋色のような真っ赤な罪であろうと、全てを赦してくださり、雪のごとくに真っ白な者とさせてくださいます(詩編51:9)。死ぬべき命を天の御国で生きる命とさせてくださいます。これが神の約束です。
例え身体の病は癒されても罪という病が癒されなければ、人は死んで終りです。「罪が支払う報酬は死です。」(ロマ6:23)その解決の為に主イエスが私達の身代わりとなって十字架に架かってくださり、私達は死から救い出されました。「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」(24節)、とは正に「罪という自分では治す事ができない病が既に癒されているから、罪まみれのそこから起き上がり、床を担いで、神の元に帰りなさい。大丈夫だ、私があなたを赦した」と、語りかけておられるのではないでしょうか。
罪という病は癒されて完結するのではなく、癒されて感謝と賛美をもって救い主イエス・キリストのふところに飛び込んでスタートします。天の御国に帰るまで日々「あなたの罪は赦された」という宣言を聞き続けていくのがキリスト者です。しかし毎日罪を犯し続け、自分は何とダメな人間だろうと涙する時もありますが、ありのままのボロボロの姿で神の前に祈る時「主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる」(イザヤ55:7)という御言葉を聞かせてくださり、罪の重荷は降ろされ日々罪の赦しを受けて新しい人となっていきます。故に日々祈るのです。
弱さを誇る
コリントの信徒への手紙二 12章9~10節
1.勝敗にこだわる生き方
昔、美空ひばりさんが歌った歌でこういう歌詞がありました。「勝つと思うな、思えば負けよ」という歌です。「柔」(やわら)という歌なんですね。
歌の心は、「無心で勝負しなさい」ということなんでしょうが、勝負の世界で勝利することを願わないことはありえないと思うのですね。何のために訓練するのか?
豊臣秀吉の歌。
負ける負けると思えば負け、勝つ勝つと思えば勝つものなり。
負けると思いて勝ち、勝つと思いて負けることもあれど、
人には勝つものと言い聞かすべし。
さすがに天下人の歌ですね。頭から人を飲み込んでいるのです。
2.強さ、弱さにこだわる生き方
勝つ、負けると同じように、強さ、弱さにこだわる人もいます。強い人間、弱い人間。おもにそれは生き方に関して考えられます。強い人が勝ち、弱い人が負ける。その中でも、「宗教を信じるなんて弱い人間のすることだ」、そういう考え方があります。たとえ困難、艱難、苦悩があっても、自分の力で切り開き、誰の助けも借りない。それが強さ、というわけであります。
同じような論理で、賢さ、頭の良さというのがあります。テストの成績がよいことが、人生の勝利、強さに結びつくというわけです。
今の世の中、強さ、賢さ、頭の良さだけを求めている(効率の良さといってもいいかもしれません)。そのお陰で弱い人、負けていると思っている人、成績が十分でない人、備わった実力を発揮できない人などがいるのです。そういう人が疎外されている。大切にされない。しわ寄せをくっている。 そういう状況の中で、世の中が住みにくくなっているのではないでしょうか? 若者の自殺が増えていると言われます。
3.弱さを誇る生き方
聖書を読みますと、人生の解決が示されていると信じます。人の価値は、見えるものというよりも見えないところにある。人が美しく、偉大なのは、表面に現われているものによってではなく、内側に隠され育っているところにある。これが聖書の教えなのですね。それは人間としての優しさ、思い遣り、心の大きさ、広さが人間の魅力となります。聖書は、負けてもいいんだよ。そう言ってくれるように思います。だから、安心できる。平安なのです。勝つことが当たり前というのは、疲れます。負けるからこそ、弱さがあるからこそ、人間的な魅力、輝きがあるのではないでしょうか?
キリストに倣って聖くなれる
テサロニケの信徒への手紙一 12章9~13節
主なる神の前に信仰告白して、洗礼を受けてキリスト者となります。そのような洗礼に始まる私達の信仰生活の成長をジョン・ウェスレーという人は「聖化」という言葉で表現しました。又、聖書において「召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。あなたがたは聖なる者となれ、わたしは聖なる者だからである。」(ペテロⅠ1:15~16)と、「イエス・キリスト」に倣って聖なる者になるようにと記されています。
イエス・キリストを模範とする為に具体的に「マケドニア州やアカイヤ州にいるすべての信者の模範となるに至った」(1:7)とあるように、テサロニケ教会の信徒達から学びたいと思います。
伝道者パウロは、ローマやコリント等の教会でも主イエスの福音を同じように語りましたが、他の教会の人々とは違って、テサロニケの教会の人々が「すべての信者の模範」となったのです。彼らは何ら問題なく模範となったのではなく、むしろ「・・・ひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしに倣う者、そして主に倣う者となり・・・」(1:6)と記されています。過酷な現実の中にあっても聖霊の助けによって、喜びをもって御言葉を受け入れて神によって生かされている事の喜びを知り、心から感謝したのです。彼らの力も能力も経験も、もはや用をなさない場面で神の御言葉に生きた彼らでした。人の命は人の言葉によって生きる事はできず、神と向き合い、神の言葉を聞く事によってのみ生きる事ができます。「・・・人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また信じているあなたがたの中に現に働らいているものです」(2:13)パウロという人間が語った言葉を、神の言葉として信じている人の中で、御言葉が生きて働きキリストに倣う者となります。創世記1章では、無から有を生み出す神の御言葉がこの世界を創造された事が記されていいます。同じように今なお変わらず、御言葉をもって私達に働いております。
神の御言葉は聖霊によって私達に語りかけ、成長させてくださいます。「大切なのは・・・成長させてくださる神です。」(コリントⅠ3:7)自分の力や能力のなさ、置かれた状況に嘆く必要はもはやなく、唯、神の御前に立たせて頂いている事に喜びをもって感謝しつつ「今日、この私に神は何を語りかけてくださるか?」御言葉に踏み止まり神の御言葉に聴き続ける事によって、イエス・キリストに倣う者として神が聖なる者としてくださいます。