待ち望むものは何ですか

ペトロの手紙二3章8~18節

 「わたしの父の家には住む所がたくさんある。…行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」(ヨハネ14:2~3)イエス・キリストが再びおいでになる事=再臨が約束されています。再臨は夢物語ではなく確かに起きる事柄の預言です。再臨信仰を離れて真のキリスト教は成立せず、キリスト教の真髄であるとまで言われています。
 しかし、この手紙が書かれた時代も主イエスはおいでにならず、再臨はもうない、と考えていました。現代も再臨よりも目の前の問題解決を待ち望んでいるのではないでしょうか。一方、神の視点でみるなら「一人も滅びないで皆が悔い改めるように」(9節)と、再臨を先延ばしして、全ての人がキリストの十字架を信じて天国に入ってもらいたいという神の愛と忍耐の表れです。
 「主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音を立てながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。」(10節)と警告しています。仮にキリストの再臨がないなら、この世の正しい締めくくりがないままに終わり、誰も天国に入る事はできません。キリスト者だから自動的に天国に行けるのではなく、再臨の時に私達はそれぞれの行いに応じて審判を受ける事になります。
 その為の準備をするように勧められています。「きずや汚れが何一つなく、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい」(14節)私達が救われたのは、傷もしみもない小羊のようなキリストの尊い血によってです。人間側が神を拒否したにも拘らず、愛し抜いて、キリストの命を与えてくださいました。信仰とは、主イエスが流されたその血潮を我が身に受け続ける事です。この身は傷や汚れだらけですが、神の前に立って求めるなら、神が清めてくださいます。再臨の主の前に立つ事ができるように、日々清められるのです。清められる事は再臨の準備の為です。
 「堅固な足場を失わないように注意しなさい」(17節)堅固な足場とは、天の御国への希望の確信です。希望を持ち続ける事、確信を持ち続ける事、諦めない信仰です。人生はこの世では終りではありません。今は暗い時代に生きていますが、そこを生き抜ける人、堅固な足場を失わない人とは、頑強な人ではなく、キリストの再臨を信じて希望を持ち続ける人です。再臨は終わりではなく、最終結末に向かう希望の始まりです。これを待ち望むのです。