死んでも生きる

ルカによる福音書5章12~26節

 「人よ、あなたの罪は赦された」(20節)今も私達に宣言してくださっています。自分の罪と向き合い苦しんでいる人にとっては、何にも勝る恵みであり、最大の癒しのお言葉です。しかし、人の罪の問題は神の前に明らかであっても人間の目には隠されていますので、罪を自覚し赦しを求めるよりも、目に見える数々の問題、病の癒し等を熱心に求めるのが私達の現状といえます。癒される事を願い祈るのは当然で神からの大きな恵みですが、それだけに気を取られて罪の赦しの恵みを見失うなら、主イエスの教えと権威の意味を悟らない者となってしまいます(21節)。
 週毎の礼拝で「…罪の赦し、永遠の命を信ず」と、使徒信条を告白しています。このような罪びとである私でも赦される事を信じますと、告白する事を許されている私達です。「…主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。主はお前の罪をことごとく赦し、病をすべて癒し、命を墓から贖い出してくださる」(詩編103:1~3)緋色のような真っ赤な罪であろうと、全てを赦してくださり、雪のごとくに真っ白な者とさせてくださいます(詩編51:9)。死ぬべき命を天の御国で生きる命とさせてくださいます。これが神の約束です。
 例え身体の病は癒されても罪という病が癒されなければ、人は死んで終りです。「罪が支払う報酬は死です。」(ロマ6:23)その解決の為に主イエスが私達の身代わりとなって十字架に架かってくださり、私達は死から救い出されました。「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」(24節)、とは正に「罪という自分では治す事ができない病が既に癒されているから、罪まみれのそこから起き上がり、床を担いで、神の元に帰りなさい。大丈夫だ、私があなたを赦した」と、語りかけておられるのではないでしょうか。
 罪という病は癒されて完結するのではなく、癒されて感謝と賛美をもって救い主イエス・キリストのふところに飛び込んでスタートします。天の御国に帰るまで日々「あなたの罪は赦された」という宣言を聞き続けていくのがキリスト者です。しかし毎日罪を犯し続け、自分は何とダメな人間だろうと涙する時もありますが、ありのままのボロボロの姿で神の前に祈る時「主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる」(イザヤ55:7)という御言葉を聞かせてくださり、罪の重荷は降ろされ日々罪の赦しを受けて新しい人となっていきます。故に日々祈るのです。